松田智雄松田 智雄(まつだ ともお、1911年5月22日 - 1995年11月9日)は、日本の経済史学者、東京大学名誉教授。近代ドイツ経済史を研究[1]。 来歴朝鮮仁川生まれ。旧制成城高校を経て、東京帝国大学卒。立教大学教授、1956年東京大学経済学部教授[1]。72年定年退官[要出典]、ケルン日本文化会館長、図書館情報大学長[1]。従兄弟の長男に荻昌弘がいる[要出典]。 智雄は東京帝国大学で野村一彦と親しく交わり、一彦の自宅にも遊びに行く事も有った。そこで出会ったのが一彦の妹で、後に作家となる松田瓊子(野村けい子)であった。智雄は、けい子が日本女子大学校の英文学科2年次在学中から交際を始め、やがて義父・野村胡堂の許可を得て婚約する。しかし、1940年1月、けい子は慢性腹膜炎(結核性腹膜炎)を発症し、23歳で死去。けい子の死後、義父の協力を得て、遺作を出版する。この際、作者名を「松田けい子」とした。遺作の出版を手伝った亡き妻の妹稔子と再婚する。1995年、84歳で死去。 軽井沢松田は長野県軽井沢の別荘地発展に大きく貢献した人物である。市村今朝蔵夫妻が1932年に開拓した、軽井沢南原にある学者村別荘地「友達の村」に我妻栄、蝋山政道、松本重治、吾妻光俊、井上秀、黒川武雄、野村胡堂、前田多門らとともに初期から別荘を構えた[2]。松田はのちにその別荘地の自治組織「軽井沢南原文化会」の理事長となった[3]。 1965年には、画家の田部井石南らとともに新たな学者村の創設を目指し、軽井沢追分に「藤石学者村」をつくった。 1970年には、加藤与五郎、三上次男に次いで、軽井沢文化協会会長に就任した[4]。 1918年に新渡戸稲造と後藤新平が開設した夏季講演会「軽井沢夏季大学」の戦後再開に向けても、市村今朝蔵、蝋山政道、岩崎民平、小林多津衛らとともに協力援助した[5]。 著書
共編著
記念論集脚注参考資料
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