東 実基本情報 |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
和歌山県海南市 |
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生年月日 |
(1934-07-17) 1934年7月17日(90歳) |
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身長 体重 |
176 cm 71 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
左投左打 |
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ポジション |
投手 |
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プロ入り |
1957年 |
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初出場 |
1957年3月31日 |
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最終出場 |
1960年8月14日 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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東 実(あずま みのる、1934年7月17日 - )は、和歌山県海南市[1]出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
海南高校ではエースとして1952年春の選抜に出場[1]。2回戦(初戦)で鹿児島商に引き分け再試合の末に敗退[2]。同年春季近畿大会でも決勝に進むが育英高に敗退。夏の甲子園県予選は準決勝で向陽高に敗れる。チームメートに右翼手の筒井真次(南海-高橋-大映)がいた。
卒業後は立教大学に進学。東京六大学野球リーグでは1953年春季リーグで優勝を経験するが、その後は明大、早大に抑えられ、1955年秋季リーグから3季連続2位にとどまる。1955年春季リーグでは東大からノーヒットノーランを達成した[1]。リーグ通算55試合登板、20勝11敗10完封、防御率1.34、144奪三振[1]。大学同期に矢頭高雄・堀本律雄、1年下に長嶋茂雄・本屋敷錦吾・杉浦忠らがいる。
卒業に当たって、南海と大洋から勧誘を受ける。東の実家が和歌山県海南市で南海電鉄(和歌山軌道線)の沿線だったこともあり、東と家族は南海に好意的であった。一方で、立教大学監督の辻猛は大洋への入団を勧めていた。南海監督の鶴岡一人が東の意志を確認した上で、辻に対して南海入団を了承してもらえるよう頼みに行ったが、喧嘩別れのようになってしまい、暗黙の内に南海入りが決まったという[3]。
1957年は開幕2試合目の3月31日の近鉄とのダブルヘッダーの第1試合で同期入団の木村保が勝利を挙げると、東は第2試合に先発で起用されるが4回途中で連打を浴び無失点ながら降板。シーズンでは31試合に登板するが1勝(4敗)に留まる。その後は登板機会が減少、在籍5年でわずか2勝に終わり、1961年限りで引退した。
選手としての特徴
低目に入るカーブに見るべきものがあったが、球威・コントロールともに今ひとつで、プロ野球では通用しなかった。また、同期入団の木村保がいきなり活躍したことが、精神的に焦る原因になったとも評されている[4]。
詳細情報
年度別投手成績
年
度 |
球
団 |
登
板 |
先
発 |
完
投 |
完
封 |
無 四 球 |
勝
利 |
敗
戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝
率 |
打
者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬
遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴
投 |
ボ 丨 ク |
失
点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P
|
1957
|
南海
|
31 |
6 |
0 |
0 |
0 |
1 |
4 |
-- |
-- |
.200 |
301 |
72.0 |
68 |
8 |
27 |
0 |
2 |
50 |
0 |
0 |
30 |
26 |
3.25 |
1.32
|
1958
|
10 |
2 |
0 |
0 |
0 |
1 |
1 |
-- |
-- |
.500 |
113 |
25.1 |
28 |
3 |
10 |
0 |
0 |
16 |
1 |
0 |
12 |
12 |
4.26 |
1.50
|
1959
|
4 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
-- |
-- |
.000 |
42 |
9.1 |
8 |
1 |
4 |
0 |
1 |
5 |
0 |
0 |
5 |
4 |
3.86 |
1.29
|
1960
|
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
-- |
-- |
---- |
15 |
3.1 |
3 |
0 |
1 |
0 |
0 |
2 |
0 |
0 |
2 |
0 |
0.00 |
0.92
|
通算:4年
|
48 |
9 |
0 |
0 |
0 |
2 |
6 |
-- |
-- |
.250 |
471 |
110.0 |
107 |
12 |
42 |
0 |
3 |
73 |
1 |
0 |
49 |
42 |
3.44 |
1.36
|
記録
- 初登板・初先発登板:1957年3月31日、対近鉄パールス3回戦(大阪スタヂアム)、3回1/3無失点で勝敗つかず
- 初勝利・初先発勝利:1957年6月10日、対東映フライヤーズ8回戦(大阪スタヂアム)、6回0/3を3失点
背番号
- 18 (1957年 - 1959年)
- 10 (1960年 - 1961年)
脚注
- ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、13ページ
- ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ 『鶴岡一人の栄光と血涙のプロ野球史』260頁
- ^ 『鶴岡一人の栄光と血涙のプロ野球史』260,262頁
参考文献
- 鶴岡一人『鶴岡一人の栄光と血涙のプロ野球史』恒文社、1977年
関連項目
外部リンク