東宝映画第二撮影所
東宝映画第二撮影所(とうほうえいがだいにさつえいじょ)は、かつて存在した日本の映画スタジオである。現在の東宝の前身である東宝映画が1939年(昭和14年)に開設した。現在は、東宝が最大株主である関係会社・国際放映が所有し、東京メディアシティとして稼働している。 データ北緯35度38分11.05秒 東経139度36分35.10秒 / 北緯35.6364028度 東経139.6097500度 名称の変遷
略歴・概要1939年(昭和14年)、東宝映画は、東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)の東側の土地にスタジオを新設、これを東宝映画第二撮影所とした。山本嘉次郎監督の『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)の真珠湾のオープンセットは同撮影所内北側の敷地に建てられた。現在は砧サンライズマンション等住宅地になっている。 1943年(昭和18年)12月、東宝映画は東京宝塚劇場と合併して、現在の東宝となり[1]、同撮影所は東宝第二撮影所と改称した。翌1944年(昭和19年)、所内に航空教育資料製作所を設置、円谷英二を責任者とした。 第二次世界大戦後、東宝には争議が起こり、第二次東宝争議中の1946年(昭和21年)11月、大河内傳次郎ら東宝十大スターが「十人の旗の会」を結成して労働組合を脱退、他の脱退者とともに同撮影所を拠点に映画製作を始める。4か月後の1947年(昭和22年)3月25日、新東宝映画製作所(のちの新東宝)を設立、同撮影所を新東宝映画製作所と改めた。1948年(昭和23年)4月25日、株式会社新東宝が設立され[2]、同製作所は新東宝撮影所と改称した。 →詳細は「新東宝」を参照
新東宝は1961年(昭和36年)8月31日に倒産、製作部門を分社化し同年11月15日にニッポン・アートフィルム・カンパニー(NAC)を設立、やがて同撮影所の敷地の大部分を日本大学等に売却、機能を縮小して、 1962年(昭和37年)1月からテレビ映画製作に乗り出す[2]。清算会社・新東宝は、東京放送、フジテレビジョンの資本を得て、1964年(昭和39年)3月、国際放映に改組[2]、NACを吸収する。同撮影所は、ひきつづきテレビ映画を製作する国際放映撮影所と名称を変えて、稼働した。 →詳細は「国際放映」を参照
1992年(平成4年)4月、同撮影所は、国際放映の経営のもと、テレビ番組収録用貸しスタジオ東京メディアシティとなり、現在に至る[2]。 →詳細は「東京メディアシティ」を参照
註外部リンク
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