明法博士(みょうほうはかせ)は、古代日本の律令制下において大学寮に属した官職の一つ。令外官。定員2名で、当初は正七位下相当。
後に名門出身者で占められるようになった。
神亀5年7月21日(728年8月30日)の格において文章博士とともに設置された[1]。当初の名称は律学博士(りつがくはかせ)であったが、天平2年3月27日(730年4月18日)に明法生が設置されてから遠くない時期に明法博士と改称されたとされている。明法博士の下には明法得業生(みょうほうとくぎょうしょう)2名と明法生(みょうほうしょう)10名(後に20名)があった。後には、陣定などの朝議に際して法律的な見解を記した明法勘文を作成・提出することも重要な職務となった。平安時代中期には讃岐氏や惟宗氏の世襲の傾向が見られたが、中世以降には両氏に代わって、名望の坂上氏及び中原氏の世襲となった[2]。
脚注
- ^ 『続日本紀』大宝元年8月戊申(8日)条に西海道を除く各道に明法博士を派遣して大宝令について説明させたとする記事がある。これについて、飛鳥浄御原令期には明法博士が置かれていたが大宝令では設置されなかったとする説と大宝令編纂に関わった「令官」のこととする説、明法を原義のように“法律に明るい”と解して単に「法律に通じた学者」とする説がある。(久木幸男『日本古代学校の研究』(1990年、玉川大学出版部)ISBN 4-4720-7981-X)
- ^ 建久2年(1191年)4月1日に鎌倉幕府政所別当・中原広元が土御門通親の推挙により明法博士となった。この人事について九条兼実は明経道系の中原氏出身(後に大江氏に改姓)である広元の就任は先例に反すると激しく非難している(『玉葉』4月1日条)。もっとも広元の在任期間は短く、同年11月5日に辞任している(『吾妻鏡』建久3年3月2日条)。この辞任については、自由任官による源頼朝の不快が原因とする解釈が一般的であるが、頼朝が在京武力掌握のために検非違使庁を幕府の管理下に置く構想を抱き、検非違使庁の法曹部門を担当する明法博士に広元を就任させたものの、建久二年の強訴を防げなかった責任を取って辞任したのではないかとする見解もある(佐伯智広「一条能保と鎌倉初期公武関係」『古代文化』564、2006年)。
関連項目