徳川綱教
徳川 綱教(とくがわ つなのり)は、和歌山藩の第3代藩主。 生涯寛文5年(1665年)8月26日、第2代藩主・徳川光貞の長男として生まれる。幼名は長光丸。寛文10年(1670年)1月7日、幼名を長福丸と改める。 元禄11年(1698年)、光貞が隠居すると家督を継ぐ。倹約を行い、藩の財政を建て直そうとしたが、宝永2年(1705年)5月18日に志半ばで薨去した。享年41(満39歳没)。子がなく、跡を継いだ弟・頼職も同年のうちに26歳で卒去し、第5代藩主に就いた吉宗が再び倹約を実行する。 綱教は第5代将軍・徳川綱吉の娘婿として将軍家世継ぎと目されたが、綱吉より早く亡くなったため、綱吉はやむなく甥の綱豊(徳川家宣)を後嗣にしたという説がある。あるいは鶴姫の死去で自分の血筋を将軍家に続けられなくなったことから、綱教より血筋が自身に近い綱豊を選ばざるをえなくなったともいわれる。 和歌山藩主としての治世は7年1か月であり、この間の江戸参府3回、和歌山帰国4回、和歌山在国の通算は2年7か月であった[1]。 官歴※日付=旧暦
脚注
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