後生掛温泉
後生掛温泉(ごしょうがけおんせん)は、秋田県鹿角市(旧国陸奥国、明治以降は陸中国)にある温泉。 岩手県と秋田県県境の八幡平(火山)山頂から少し西側に位置し、八幡平アスピーテライン沿いにあり、山の中にしては比較的交通の便がよい。 泉質「馬で来て足駄で帰る後生掛」と謳われたように、昔から効能の高い湯として知られている[1]。 効能神経痛・リウマチ・糖尿病・慢性婦人病の効能がある。また「後生掛鉱泥纏絡(てんらく)療法」として泥を使った治療が行われ、硫黄分を含んだ鉱泥を袋に入れて患部を湿布し、慢性的な炎症部の痛みを和らげ血脈の流れを良くする方法が取られている[1]。 温泉街後生掛温泉は昔からの湯治宿で、一温泉一軒宿だが、外見上は、「本館」「新館」「湯治棟」に分かれている。湯治宿の面影を色濃く残す湯治棟は自炊が基本。宿舎の床下に蒸気を通して暖める「オンドル構造」になっていて、自室で寝ているだけでも湯治効果があるという。 大浴場はかつてはすべて混浴であったが、今は男女別となっている。木製の箱の中に頭部だけ出して入り、蒸気で温まる「箱蒸し風呂」は、昔、「原始トルコ風呂」と呼ばれていたころから後生掛温泉の名物となっている。ほかに「露天風呂」「泥風呂」「火山風呂(気泡浴)」「打たせ湯(滝風呂)」などもある。日帰り入浴も可能。 源泉は4種類。宿の裏側には泥を吹き上げる墳気口や泥火山などを観察できる「後生掛園地」がある。宿は秋田焼山の登山口の近くにある。 高温の源泉を利用して作られる温泉卵が名物。硫黄分が多いため、卵の殻が黒く変色しているのが特徴である。 歴史後生掛温泉は御所懸、御所之湯とも呼ばれ、蒸ノ湯温泉などと同じ頃に硫黄鉱山として開発されたと言われている。古くから湯治場として開発されたと思われるが、由来はわからない[1]。 後生掛の地名の由来には以下のような伝承がある。
1881年(明治14年)谷内村の阿部仁八によって開湯した。阿部仁八はキリスト教のカトリックを信仰していた。 1949年ザビエル来日400年を記念して、後生掛自然研究路の十字架岩に十字架が建てられた。現在でも阿部仁八の意思に沿って、カトリック信者により8月後半か9月前半にミサが行われている。 1959年(昭和34年)9月3日、後生掛温泉を含む八幡平温泉郷を国民保養温泉地に指定。 後生掛自然研究路後生掛温泉の背後に広がる後生掛園地を巡る自然観察路。 後生掛の語源となった「オナメ・モトメ」の温泉の噴出口の他、94℃の泥湯の紺屋地獄、噴気孔やマッドポット(泥壷)が沢山ある小坊主地獄、泥湯の集合体である大湯沼、透明なPH1.8の強酸性の湯が噴出する中坊主地獄、大泥火山などがある。1周約30分のコースで、珍しい火山現象を観察できる。熱湯や有毒な硫化水素ガスが噴出し、陥没の危険もあり歩道以外の移動は禁止されている。 この地は分水嶺になっておりシャクナゲ茶屋と十字架岩を結ぶ小さな尾根が分水嶺である。北は米代川水系に、南は雄物川水系となっており、江戸時代にはこの地点が久保田藩と盛岡藩の藩境となっていた。 大湯沼は100m×150mの楕円形の泥沼で、面積は約1haで、温度は83℃である。活動が弱くなった沼中央部には中州となり高山植物が生えている。1981年に活動が西側に移動して、沼を一周する自然観察路は破壊され、西側は立ち入り禁止となった。 大泥火山の規模は日本一で、高さは1~2mで、地下7~8mのものが8個連なっている。昔は沼であったが大正6年頃から成長を始め、噴気孔の周りに泥が円筒状に堆積して火山のような形をしている。普段はおとなしいが、数年ごとに噴出し小さな火山のようになっている。 周囲には硫化水素ガスに耐えられる植物が生育しており、イソツツジ、ガンコウラン、シラタマノキ、イオウハナゴケ、ヤマタヌキラン、キタゴヨウなどがある。 アクセス車
鉄道バス以下は2018年4月 - 11月の情報。後生掛温泉バス停までは毎日運行されていないため注意が必要。
乗合タクシー周辺脚注
関連項目
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