引接寺 (京都市)
引接寺(いんじょうじ)は、京都市上京区千本通廬山寺上る閻魔前町[注 1]にある高野山真言宗の寺院[1]。山号は光明山。本尊は閻魔法王。一般には千本ゑんま堂(せんぼん えんまどう)と通称される[1]。春の念仏狂言で知られる。 引接とは仏が衆生を浄土に往生させること[1]である。その名の通りこの寺は、かつての京都の3大墓地であった化野、鳥辺野、蓮台野(れんだいの)の一つである蓮台野の入口に立っている。現在でも地獄の裁判官である閻魔の像を祀り、「悪いことをするな」「嘘をついてはいけない」という子供らへの教戒の場となっている。寺務所では「えんま様のお目こぼし」というかき餅も売られている。 歴史そもそもは現世と冥土を行き来して、閻魔法王とも交流したという伝承のある小野篁(802年 – 853年)が、蓮台野の入口であるこの地に自ら閻魔法王の姿を刻んで祠を建立して祀ったのが当寺の始まりであるという。 その後、寛仁元年(1017年)に藤原道長の後援を得た恵心僧都源信の弟弟子・定覚により、「諸人化導引接仏道」の道場とすべく篁が建立した祠をもとに開山されたと伝える。後に廃れたが、文永10年(1273年)に明善律師によって中興された。 安土桃山時代、京に来た宣教師ルイス・フロイスの『日本史』(Historia de Iapan)中に、永禄8年(1565年)当時の本寺の境内の様子が記されている。 天正2年(1574年)に織田信長が上杉謙信に贈ったと伝えられ、京の名所と町衆の姿を描いた国宝『洛中洛外図屏風』(米沢市上杉博物館蔵)の左隻右上に「千本ゑんま堂」が描かれている。その境内では普賢象桜や十重石塔とともにゑんま堂狂言「閻魔庁」を演じている様子が描かれている。 千本ゑんま堂大念仏狂言は、1964年(昭和39年)に後継者不足が原因で途絶える。1974年(昭和49年)には不審火によって狂言堂が焼け、狂言衣装も焼失する。しかし、翌1975年(昭和50年)には焼け残った狂言面をもとに「千本ゑんま堂狂言保存会」が結成され、狂言堂は仮建築ながら再建された。以前の西陣講中を中心としたメンバーや一般から募集したメンバーも含めた編成に推移し、以降復活した狂言二十数演目が毎年境内で公開されている。 境内
年中行事
文化財重要文化財
京都市指定有形文化財
京都市指定無形民俗文化財
前後の札所
住所交通脚注注釈
出典関連項目
外部リンク
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