山東省 (中華民国)
山東省(さんとうしょう)は、中華民国に存在した省。現在の中華人民共和国山東省の大部分に相当する。 管轄区域東は青島市及び黄海、西は河北省及び河南省、南は河南省・安徽省及び江蘇省、北は河北省及び渤海に接していた。 行政沿革1912年(民国元年)、中華民国建国当初の山東省は清朝の実効支配下に置かれていた。北京政府の成立に伴い中華民国の行政機構に改編されると清代の山東巡撫を山東都督と改称している。1913年(民国2年)、都督の下に民政長が設置され民政と軍政を分離、1914年(民国3年)5月23日には民政長を巡按使と改称、更に1916年(民国5年)7月6日に省長と改称されている。 1928年5月16日、国民党中央政治会議第140回会議により山東省政府の設置が決定、21日に南京政府より行政機構設立の命令が発せられている。1929年8月、ドイツの租借地であった膠州湾租借地にあたる地域が直轄市の青島市として分立した。1936年(民国25年8月、行政院により全省に17区の行政督察区が設置され、省政府の補助機関として運営されるようになった。日中戦争が勃発すると1937年(民国26年)末に山東省は日本軍により占拠され、中華民国臨時政府、続いて汪兆銘政権の華北政務委員会により行政運営がされるようになった。 1945年(民国34年)8月、日本軍の敗北と汪兆銘政権の崩壊により国民政府の行政権が回復、10月には山東省政府委員会が新たに組織された。1949年(民国38年)9月24日、共産党軍は省会である済南市を占拠、中華民国は実効支配権を喪失している。 省会1912年(民国元年)、省会を歴城県に設置。1928年(民国17年)の済南事件以降は泰安県に移された。1929年5月に歴城県に戻されたが、同年7月に済南市に移転している。 行政区画道制1913年(民国2年)1月8日、北京政府が発布した『劃一令』により岱北、岱南、済西、膠東の4道が設置され、1914年5月に済南、済寧、東臨、膠東とそれぞれ改称された。1925年10月22日には済南、東昌、泰安、武定、徳臨、淄清、萊膠、東海、兗済、琅琊、曹濮の11道に改編された[1]。1928年(民国17年)4月30日、張宗昌が北伐軍により駆逐されると道制は5月に廃止された。 県級行政区画中華人民共和国成立直前の管轄県は下記の3市108県1設治局。(50音順)
行政督察区行政督察制度は省政府と県政府の間に中間行政機構を設置し、各県を監督させる制度である。1935年(民国24年)2月、済寧等14県に暫定第1行政督察区を設置し、翌年には『行政督察区暫行条例』により全省を12区と定めたが、正式に設立されたのは3区に過ぎず、1937年(民国26)1月になってようやく7区までが整備された 1938年、全省を15区に、翌年には3区が廃止となる14区に、1941年(民国30年)には16区に改編されているが、この時期の山東省は中華民国臨時政府とその後の華北政務委員会の実効支配を受けていたために実際に施行されたものではない。 1945年(民国34年)8月、日本の敗戦と汪兆銘政権の崩壊により中華民国が実効支配権を回復、済南、煙台、威海衛の3市を省直轄とすると共に、全省を16区に再編し、1949年(民国38年)の中華人民共和国建国まで沿襲された。 脚注
関連項目
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