山崎ハコ
山崎 ハコ (やまさき ハコ、本名:山崎 初子(やまさき はつこ)[1]、1957年〈昭和32年〉5月18日[1] - ) は、日本の女性シンガーソングライター、フォークシンガー、女優。大分県・日田市出身[1]。血液型はAB型[1]。 名字の読みは「やまさき」である[1]。芸名の「ハコ」は、本名の「初子」を短縮した子供時代からの愛称に由来する。 経歴デビューまで大分県日田市の兼業農家に生まれる。生家は田んぼを持ち、父親は郵便局員であった。家族は祖父母と両親、兄が一人いた。音楽好きな兄の影響で、山崎もレコードを聴いたりギターを弾くようになったという。両親が先に神奈川県横浜市へ転居し山崎は中学校卒業まで祖母と日田市で暮らす。両親が横浜へ転居した理由について、山崎はインタビューで「母が経営していた小料理屋がうまく行かなくなったため、横浜で地下鉄工事のアルバイト[注 1]をしていた兄を頼って行った」と述べている。 中学卒業後の1973年4月、山崎も両親の住む横浜市へ転居し、横浜学園高等学校に入学した[2]。同高校在学中に音楽コンテストに出場するようになり、1974年11月に高校2年生で「ジョイナス・フォーク・コンペティション」に出場して優勝[1][3]。このコンテストに関わっていた横浜出身の音楽プロデューサー・星野東三男(ほしの とみお[4])に見い出され[3]、星野が地元の横浜で立ち上げた音楽事務所「ニューサウンド」に1975年4月から所属することとなる[3]。山崎は当時まだ高校在学中であった。 なお「ニューサウンド」はのちに「サウンドポート」「サウンドシップ」を経て、1989年に事務所名を「IMADOKI」と改称。同年に開催された横浜博覧会 (YES'89) での音楽イベント等を手掛けた[3]。同事務所には、山崎と同じく「ジョイナス・フォーク・コンペティション」からデビューした石黒ケイ、横浜市出身の裕木奈江が所属した[3]。また「ジョイナス・フォーク・コンペティション」には、デビュー前の渡辺真知子も出場している[3]。 同1975年5月にフォーク系レーベルのエレックレコードと契約。すでに50曲近く書きためていた中から選曲してレコーディングを開始した[3]。同年10月1日、ファーストアルバム『飛・び・ま・す』をリリース[1]。18歳でメジャー・デビューを果たす。また同年9月26日にはデビュー・コンサートを横浜市教育文化センターで開催した。 1975年末には林美雄がDJを務めるTBSラジオの音楽番組『パックインミュージック』に出演[3]。同年12月にTBSホールで開催された「第1回パック祭り」では荒井由実や石川セリと共演した[3]。なお同番組は、荒井のデビュー曲「返事はいらない」を紹介し、1stアルバム『ひこうき雲』がブレイクするきっかけを作ったことでも知られる。 山崎はデビュー前から病弱で[3]、かねてより慢性膵炎の持病を抱えており、膵臓に負担がかかるため成人後も「酒・タバコどころかコーヒーなども口にできない」という体質である[5]。そのため、デビュー時から所属していた音楽事務所「IMADOKI」社長の星野は、病弱な山崎の負担を避けようと、シングルを次々に出してヒット曲を狙うという手法を取らなかったと語っている[3]。 フォークブームの中で翌1976年に2ndアルバム『綱渡り』発売後、同年7月16日にエレックレコードが倒産。キャニオン・レコード(現:ポニーキャニオン)に移籍、3rdアルバム『藍色の詩』発表。以降、1984年のアルバム『てっせんの花』まではキャニオンからのリリースとなる。 フォークギターの弾き語りで、女の情念や怨念といった心情を土俗的なイメージとともに哀しく切々と歌い上げ、熱狂的なファンを獲得した。九州弁を活かした歌詞や、日本各地に古くから伝わる伝承歌を題材とした作品もあり、地元の九州や大分、神奈川や横浜のご当地ソングも多数ある。150cm前後の小柄で痩せた体躯から発せられる低音で表現力を誇る歌唱と、暗く鋭く愛をもって社会を抉る歌詞で、デビュー当時は「中島みゆきのライバル」と称された。 1979年4月から1980年3月にかけてはニッポン放送の『オールナイトニッポン』火曜日2部のDJを担当[1]。「深夜放送のマドンナ」と称された。 また映画音楽の制作も手がけ、初の映画音楽として1979年のホラー映画『地獄』の主題歌「心だけ愛して」、挿入歌「きょうだい心中[6]」を担当[1]。この主題歌と挿入歌はシングルとして発売されたが、兄妹の近親姦と心中を扱った「きょうだい心中」は放送禁止歌とされた(ただしこの歌詞は山崎のオリジナルではなく、西日本の各地に伝わる伝承歌を元にしたものである)。 1981年には、九州の炭鉱地帯を舞台とした五木寛之原作の映画『青春の門』の音楽を担当、五木作詞の主題歌「織江の唄[7]」がヒットした[1]。1984年にはベトナム戦争で国を追われたボートピープルを題材としたアン・ホイ監督の香港映画『望郷』(投奔怒海)の主題歌を担当[1][8](制作は1982年、1984年日本公開)。1990年には同じ音楽事務所「IMADOKI」に所属する裕木奈江の主演映画 『曖・昧・Me』の音楽制作を担当した[1]。 アルバム『幻想旅行II』の発表時点(1982年)で、発売したLPはそれぞれ5万枚ずつ売れていた[9]。 所属事務所の倒産しかし1980年代以降はフォークブームが過ぎ、左翼運動や学生運動の後退により政治色の強いプロテスト・フォークは廃れ、好景気を背景に「四畳半フォーク」は「ダサい」と言われるようになる。「ネクラ・ネアカ」が流行語となった世相の中で、山崎の楽曲は「暗い」と言われてレコードのセールスが伸び悩むようになった[3]。当時はタモリなどのお笑い芸人が「暗い曲・怖い曲」として山崎の楽曲を笑いのネタにすることさえあった[注 2]。 1985年、ポリドール(現:ユニバーサルミュージック)へ移籍。アルバム『光る夢』を発表。ポリドールから1986年11月発売のライブ・アルバム『私の幸せ』まで4枚のアルバムを発売するが、このアルバムの制作前に音楽事務所から「最後の弾き語りステージをライブ・アルバムとして残したい」と言われており、活動休止が示唆されていた。 その後、約3年のブランクを経て1990年にトーラスレコード(現:ユニバーサルミュージック)へ移籍し、『SA・SU・GA(流石)』含む2枚のアルバムを発表。この頃から、それまでのフォーク調からブルース色が強くなり、曲調やジャケット写真も都会的な雰囲気を強調してイメージチェンジを図った。 翌1991年にBMGビクターへ移籍(1994年以降のアルバムはビクターエンタテインメント)。1994年に初のカバー・アルバム『十八番 (おはこ) 』で第36回日本レコード大賞アルバム企画賞を受賞[1]。翌1995年には初のセルフカバー・アルバム『ハコのお箱』を発表[1]。 1991年より、渡辺えりと親交を持ったことを契機に、渡辺が主催する「劇団3○○」の演劇に出演、舞台女優としても活動を開始する[1]。 1997年には、NHK『みんなのうた』で「わっしょいニッポン」が放送された[1]。 しかし、裕木奈江主演の1993年放送のテレビドラマ『ポケベルが鳴らなくて』(日本テレビ)の撮影が始まった時期に、山崎がデビュー時から所属していた音楽事務所「IMADOKI」代表の星野が、交通事故に遭い大怪我を負い入院[3]。これに引き続く裕木に対するバッシングなどもあり[注 3]、星野は精神的に追い詰められていく[3]。そうしたことから、1998年[注 4]に「IMADOKI」が倒産、山崎はフリーとなる。なお星野によれば、石黒ケイは1986年から1987年にすでに同事務所を離れており、倒産時点では山崎と裕木が在籍していた[3]。 2000年代以降山崎は事務所倒産について、インタビューなどで「所属事務所が倒産したことで一時期はホームレスにも近い極貧生活をしていた」「生計を立てるため中華料理店で皿洗いのアルバイトをしていた」などと様々に語っている。また「事務所が倒産するまで印税の存在すら知らなかったが、突然の倒産によりマネージメントや営業活動など全てを自らこなすようになった」「22年間、事務所の言うとおりにしてきましたが、印税をまったくもらってなくて、最後に社長から渡された私の通帳には1000円しか入ってなかった」[10] とも述べている。さらに「アルバイト先の先の有線放送でたまたま自分の曲が流れたのを聴いて、自分は歌わなくてはいけないと本格的な歌手復帰を決意した」とも述べており、それにより「2008年に完全復帰を果たし、日本コロムビアより新曲『BEETLE』を発表した」などと語っている。 しかし山崎の公認ウェブサイト上のプロフィールによれば、その間にも音楽活動は継続しており、2000年にTBSテレビ愛の劇場『あっとほーむ』エンディングテーマを担当し、室井滋とのカップリングでシングル『希望』を東芝EMIから発売している[1]。2001年にデビュー前の17歳で録音したデモテープの未発表音源『飛びます…17歳』、2枚組ベスト・アルバム『Dear My Songs 山崎ハコ・ベスト』を発売している[1]。 山崎は永年独身を通していたが、2001年に作曲・編曲・演奏など長く仕事を共にしたギタリストの安田裕美(北海道小樽市出身)と結婚。結婚後も公私ともに良好なパートナー関係を続け、活動拠点をずっと横浜に置き続けていたが東京へ転居した。 2002年には徳間ジャパンからマキシシングル「やさしい歌」を発表。同年7月には、テレビアニメ『ちびまる子ちゃん』(フジテレビ)特番で山崎ハコ本人役として歌と声の出演を果たし[1]、1970年代のデビュー当時を知らない世代にもアニメを通じて名が知られるようになった(#テレビ・ラジオ企画を参照)。 2005年にはデビュー30周年を迎え、同年から翌2006年にかけて30周年記念コンサートを全国で開催[1]。2006年にはベスト・アルバム『歌いたいの』を発売[1]、1984年のLP『てっせんの花』から「てっせん子守歌」がシングルカットされ、30周年記念アルバムが発売された[1]。また同年末のNHK BS2『フォークの達人』でコンサートが放映され、新たな注目を浴びる[2]など、2008年までの間にも活躍は続いていた。 2009年11月4日、デビュー35周年記念アルバム『未・発・表』を発売[1]、翌2010年にはデビュー35周年を迎えた[1]。2014年にはポニーキャニオンから初期のアルバムがCD化され、デジタルリマスターCDとして一挙再発売された[1]。その後も楽曲のリリース、全国のライブハウスなどを巡ってコンサート活動を続け、女性フォークシンガーとして活動するとともに、エッセイの執筆など多彩な活動を行っている[1]。2020年にはデビュー45周年を迎えた[1]。 2020年7月6日、夫の安田が大腸がんで死去した[11][12]。 ディスコグラフィシングルソロ
デュエット・シングル
非売品シングル
アルバムオリジナル・アルバム
ミニ・アルバム
カバー・アルバム
セルフカバー・アルバム
ライブ・アルバム
ベスト・アルバム
タイアップ
楽曲提供
テレビ・ラジオ企画「呪い」
1979年に発売されたアルバム『人間まがい』B面の1曲目に収録された楽曲。作詞・作曲:山崎ハコ、編曲:石川鷹彦。のちに深夜ラジオ番組『大槻ケンヂのオールナイトニッポン』[21] や『コサキンDEワァオ!』などで紹介され、マニアックな評価を受けたことで代表曲となった。 「コーンコーン」という擬音のリフレインが印象的な楽曲で、呪いを込めて藁人形に釘を刺すという丑の刻参りを表す描写が特徴だが、「そういう悲しい自分に釘を刺せ」という裏の意味が込められている[22]。 ちびまる子ちゃんテレビアニメ『ちびまる子ちゃん』でも採り上げられたことがある。2002年7月7日、『2002年度「FNS27時間テレビ みんなのうた』の企画の一環として、当日放映のアニメ『ちびまる子ちゃん』の「まる子、フォークコンサートへ行く」の巻で、山崎ハコ本人役で歌と声の出演。劇中で「ヨコハマ」を歌ったほか、特別エンディングテーマとして「呪い」が流された。脚本はTARAKOが担当した。 電波少年→詳細は「進ぬ!電波少年 § 電波少年的箱男」を参照
ラジオ出演
映画出演
脚注注釈
出典
関連項目
外部リンク
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