山口文憲山口 文憲(やまぐち ふみのり、1947年5月1日 - )は、日本のノンフィクション作家・エッセイスト。親しい知人には「ブンケン」「ブンケンさん」と呼ばれる。 来歴・人物静岡県浜松市生まれ。父の山口文太郎は静岡大学名誉教授で、戦中は浜松高等工業学校で化学を教えていた。その父から「文化国家・平和憲法」から「文憲(ふみのり)」と名付けられた。 静岡大学教育学部附属浜松小学校、中学校を経て、静岡県立浜松北高等学校を卒業。 東京芸術大学器楽科(トランペット専攻)を受験するが、不合格。高校卒業後、1966年に、東京に上京して予備校に通うが、受験に失敗し、浪人生活がつづく。 1967年、トランペットのレッスンの帰りに、「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の事務所を覗いてみたところ、後にノンフィクション作家となる吉岡忍から「ベ平連ニュース」を封筒に詰める作業を頼まれ、そのままベ平連に入会。ベ平連の活動で、鶴見俊輔、小田実、武藤一羊、鶴見良行、室謙二らを知る。 同1967年、20歳にして「朝日ジャーナル」に寄稿し、ライターとなる。 1968年、「3浪」の時代に、予備校に新たに浪人生として入ってきた亀和田武に出会う。亀和田によると、このころの山口は、話がうまく、20歳そこそこの若造の話に、30代、40代の大人が笑いころげるというほどの、話芸の天才であった。一方で、他人から話を引き出すのも、非常にうまかった[1]。 ベ平連の中の、米兵の脱走を支援する組織「JATEC(反戦脱走米兵援助技術委員会)」に参加するが、1968年11月、北海道の弟子屈で、山口が運転するレンタカーに乗っていた、19歳の米脱走兵のジェラルド・メイヤーズが、日本の警察により逮捕され、アメリカ海軍に引き渡された。 また、山口は、自宅でメイヤーズにモデルガンを見せていたが、それを本物の銃と勘違いしたメイヤーズの供述により、1969年2月15日に「銃砲刀剣等取締法違反」容疑で、日本の警察に逮捕された。だが、銃は保有していなかったため、釈放された。また、高橋武智(当時立教大学助教授)宅も、メイヤーズ逮捕の関連で、警察による家宅捜索を受けた。 逮捕され、マスコミに大々的に報道されたことにより、音楽家志望は完全にあきらめる。 同1969年、新宿西口のベ平連のフォークゲリラたちの運動を助け、音楽家志望を生かしてギターを調弦、また中心にいて歌を歌った。助っ人であるにも係わらず、当時の「フォークゲリラの記録写真」では、山口が真ん中に写っている。 1970年には、アルバイトで『週刊ポスト』のデータマンを3ヶ月つとめる。 その後は、さまざまなアルバイトを行う。音楽出版社で、渡された演奏テープを聞いて、フォーク歌集一冊分の採譜をするアルバイトをしたこともあったが、その作業の際にたまたま、三上寛と出あった。 1974年から1975年にかけて、パリに滞在。 帰国後、某新聞社で「アイドルへのインタビュー」の仕事を請け負っていた際、アグネス・チャンのインタビューを行い、「16歳で海外に出稼ぎに出るアイドル」を生んだ香港に興味を抱く。 そこで、何ら先の見込みもなく、1976年のクリスマスの朝に、横浜から船に乗り、香港へ着き、そのままそこに1年ほど居つく。生活費の足しにするため、原稿を書いて日本に送り、雑誌『面白半分』に連載エッセイ「香港漫歩」として掲載。その内容はのち、1984年に『香港世界』としてまとめられた。 そののちも、香港に滞在し、その魅力のとりことなる。1979年には、玉村豊男『パリ・旅の雑学ノート』(1977年)を刊行していたダイヤモンド社から、『香港・旅の雑学ノート』を刊行。自身で撮った写真や自筆のイラスト満載で、新しい視点から都市・香港を解剖した本であり、話題となる。 なお、前書きには、「日本の観光客が香港に求める二つの楽しみ、ショッピングと中国料理の食べ歩き、この本には、この二つについては一切書かれていない。しかし、それ以外はあらゆることを盛り込んだ」とあった。また、当書の文庫化の際の解説は、アグネス・チャンが担当している。 以降、ノンフィクション作家、エッセイスト、書評家などとして活躍。新鮮な視点とユーモアに満ちた著書を、刊行し続けている。 1980年代には、雑誌「漫画アクション」の名物匿名コラム「アクション・ジャーナル」に、阿奈井文彦、亀和田武、呉智英、関川夏央、堀井憲一郎、村上知彦らとともに、執筆者の一員となった。 同世代の関川夏央、呉智英と仲がよく、3人とも独身である(関川は1度結婚したが、離婚)。 著書『読ませる技術』は、関川と2人で朝日カルチャーセンターで行っていた、「コラム・エッセイの講座」での体験が、元になっている。 また、独身女性である、檀ふみとも仲がよい。 著書
共編著
脚注
外部リンク
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