小野村林蔵
小野村 林蔵(おのむら りんぞう、1883年〈明治16年〉1月22日 - 1961年〈昭和36年〉10月11日)は、日本の牧師、戦前は植村正久の弟子で日本基督教会の指導者。日本キリスト教会の創立者、指導者。 三浦綾子に洗礼を授けた牧師として知られ、三浦の作品に頻繁に登場する。 生涯初期金融、酒造業を営む小野村林兵衛の長男として大阪に生まれる。家業の復興のために証券相場師になるが、人生問題に悩み1903年日本基督教会大阪西教会で求道をはじめる。1905年(明治38年)に大阪西教会で馬場牧師に洗礼を受ける。 1906年(明治39年)、大阪伝道同志館神学校(大阪神学院)に入学し、1907年(明治40年)に転学して東京神学社で学び、校長の植村正久に薫陶を受ける。 1910年(明治43年)に東京神学社を卒業し、新潟県佐渡に伝道に行く。1911年(明治44年)渡辺ぜんと結婚。 日本基督教会牧師時代1918年(大正7年)から、日本基督教会札幌北一条教会の牧師に就任する。また、北星女学校で理事と講師を務める。また、月刊誌『泉』を発行し、キリスト教の著述家としても活躍した。 1925年(大正14年)に政府の宗教政策を強く批判して、『神社に対する嫌疑』を出版する[1]。 富士見町教会の分裂事件が起こると、高倉徳太郎牧師とその弟子たちに対して激怒し、植村の後を継いで高倉が校長を務める東京神学社の神学生は誰一人北海道に入れないと公言した[2]。 日本基督教団時代1941年に日本基督教団が作られると、教会統合問題、日本基督教団の部制機構問題、福音主義教派のあり方について論争を展開する[1]。 北星女学校で、「この世が誰によってできたか」という質問すると、ある生徒が「天照大神がお造りになりました。」という答えた。これに対して、「天照大神は日本の御先祖の神さまですから、世界を造った神様とは違う出でしょう」と語った。この発言が札幌市国民学校長会議で問題視されたことが原因になって、1944年(昭和19年)4月、伊勢神宮への不敬と時局に対する流言飛語の疑いで検挙された。一審で懲役8ヶ月に実刑判決を受けたが、上告し滝川幸辰の弁護により控訴審で無罪になった[3]。小野村牧師は、偶像崇拝に抵抗したものの、妥協してしまい、挫折したと捉えられている[4][5]。 1946年4月~1947年12月、北星女学校11代校長。 日本基督教会再建1949年(昭和24年)には平均礼拝出席者が464名になった[1]。1951年5月に大会を開き、佐波亘、植村環、藤田治芽と共に日本基督教会を再建する。 1952年(昭和27年)7月5日三浦綾子に洗礼を授ける[6]。1953年に札幌北一条教会を引退する。[7]。 著作単著
共著
共訳
全集
脚注
参考文献伝記
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