小山貞朝
小山 貞朝(おやま さだとも)は、鎌倉時代末期の武将。鎌倉幕府御家人。小山宗長(むねなが)の嫡男で、下野国の有力豪族・小山氏の7代当主。小山城城主。 概要元亨3年(1323年)10月の北条貞時十三回忌法要において「小山下野前司」が銭百貫文を寄進していることが確認でき[1]、『常楽記』元徳2年(1330年)条に「十月一日 小山下野前司他界 貞朝 四十九」と書かれているので、これが史料で確認できる唯一の活動内容とみられる。 逆算すると弘安5年(1282年)生まれとなり、貞朝[注釈 2]の名乗りは、元服当時の北条氏得宗家当主・鎌倉幕府の執権(第9代)であった貞時から偏諱を受けたものとされる[3][4][2][5][注釈 3]。 没年については別説も伝わる。 一つ目に、『尊卑分脈』の小山氏系図に「徳治二ー関東下向之時頓死」とあり、徳治2年(1307年)の死没とする。尚、『尊卑分脈』と『系図纂要』に「評定衆」とあるが、他史料において確認できず、『尊卑分脈』でのこの記載から、六波羅評定衆の可能性を指摘する見解もある[6]。 二つ目に、元弘の乱において、新田義貞が鎌倉の北条高時を攻めるために挙兵すると、これに応じて出陣したが相模国で討死したとする。この時、先祖代々の財を隠してから出陣したといわれる。 死後、嫡男の高朝(秀朝)が跡を継いだが、彼も後に別の戦で戦死している。元弘2年(1332年) - 元弘3年(1333年)の間、貞朝が下野守護の職にあったとする説があるが、秀朝の誤りではないかとみられる。 脚注注釈出典
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