小堀金城小堀 金城(こぼり きんじょう[1]、1895年(明治28年)4月8日[2] - 1974年(昭和49年)7月14日[2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 経歴和歌山県出身[1][2]。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業[2][3]。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第15連隊付となる[3][4]。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業[1][2][5]。1928年(昭和3年)4月から1931年(昭和6年)3月まで、陸軍派遣学生として東京帝国大学法学部政治学科で聴講した[6]。 1928年(昭和13年)7月、砲兵大佐に進み山砲兵第9連隊長に発令され日中戦争に出征[1][2]。1939年(昭和14年)8月、第33師団参謀長に転じ[1]、宜昌作戦、錦江作戦、中原会戦などに参戦した[2]。1940年(昭和15年)12月、第14野戦防空隊司令官に転じて[2][7][注 1] 満州に赴任し、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級した[1][2]。 1944年(昭和19年)3月、ジャワ燃料工廠長に発令され太平洋戦争に出征[1][2]。1945年(昭和20年)8月、山田清一・第5師団長の自決に伴い同師団長代理に就任し[1]、復員業務に従事した[2]。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[8]。墓所は多磨霊園(14-1-23) 脚注注釈
出典参考文献
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