小アグリッピナ
小アグリッピナ(ラテン語: Agrippina Minor, 西暦15年11月6日 - 西暦59年3月23日[要出典])は、ローマ帝国ユリウス=クラウディウス朝の皇族。正式の名前はユリア・アグリッピナ(ラテン語: Julia Agrippina)、後にユリア・アウグスタ・アグリッピナ(ラテン語: Julia Augusta Agrippina)と名乗る。 皇帝ネロの母親として知られている。 生涯家族→詳細は「ユリウス=クラウディウス朝の家系図」を参照
小アグリッピナことユリア・アグリッピナは大アグリッピナとゲルマニクスの間で4番目に生まれた。父はゲルマニクス、母は大アグリッピナ。兄にはネロ・カエサル、ドルスス・カエサル、第3代皇帝カリグラ、妹にはユリア・ドルシッラとユリア・リウィッラがいる。 名前は母からきていて、大アグリッピナは、大ユリアと政治家マルクス・ヴィプサニウス・アグリッパの間の第4子である。大ユリアの父はローマ帝国初代皇帝アウグストゥスで、母はグナエウス・ポンペイウスやルキウス・コルネリウス・スッラと血縁関係が近いスクリボニアである。 アグリッピナの父であるゲルマニクスは、非常に人気のある将軍であり政治家だった。ゲルマニクスの母は小アントニアで、父はローマ将軍大ドルススで、小アントニアの第一子だった。 ゲルマニクスには妹にリウィッラ、弟にクラウディウスがいた。クラウディウスはアグリッピナの父方の叔父であり、3番目の夫であった。 小アントニアは共和政ローマの政務官のマルクス・アントニウスと再婚した小オクタウィアの間に生まれた次女で、大ドルススのは母リウィア・ドルシッラと父ティベリウス・クラウディウス・ネロの間に生まれた次男で、後のローマ皇帝ティベリウスは兄で、初代ローマ皇帝アウグストゥスとは連れ子の関係にある。 薄幸な前半生アグリッピナはオッピドゥム・ウビオルム(現在のケルン)で生まれた。当時、父ゲルマニクスはアルミニウスらゲルマニア人との戦争の真っ只中であった。ゲルマニクスは16年にゲルマニア総督の任を解かれ、ローマでの凱旋式の後、シリア属州として任地に赴いたが、西暦19年に没した。以来、母アグリッピナのもとで暮らす。 幼い頃、アグリッピーナは両親と一緒にドイツ中(15〜16年)を旅し、彼女と彼女の兄弟(カリグラを除く)がローマに戻り、母の祖母アントニアと一緒に暮らした。 両親は18年に公務のためシリアに出発し、タキトゥスによれば、その途中のレスボス島で3番目の末の妹、すなわちユリア・リウィッラが、おそらく3月18日に誕生した(年代記より)と書かれている。そんな中19年に父ゲルマニクスがアンティオキアで死んでしまう。 西暦28年、ユリアは最初の結婚をする。相手は帝位継承者の一人、グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(大アントニアの一人息子で西暦32年にコンスル職に就いた)。結婚したものの母が西暦29年にパンダテリア島(現在のヴェントテーネ)に流罪、西暦33年に皇帝ティベリウスより処刑されるなど薄幸な前半生を送った。 カリグラの治世37年3月16日、ティベリウスが死去し、後継皇帝としてカリグラが帝位に就いた。同じ年の12月15日に息子ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス(後のローマ皇帝ネロ)が生まれた。彼女は結婚している身ではあったが、複数の説によると、妹ユリア・ドルシッラと同様にカリグラとは近親相姦の関係だったと言われている。アグリッピナがかなり大っぴらにカリグラの周囲に顔を出していたことは事実ではあるが、この時代の上流階級は、反駁するのが難しいことを理由に、何かあると近親相姦の罪状で告発されることが多かったという点も留意しなくてはならない。小アグリッピナは末妹ユリア・リウィッラとドルシッラの元夫マルクス・アエミリウス・レピドゥスと共に兄カリグラの暗殺を企てたとして、カリグラより疎まれるようになり40年にポンティアエ諸島へ流罪にさせられた。 クラウディウスの治世、そして皇后へ西暦41年にカリグラが暗殺され、父ゲルマニクスの弟クラウディウスが帝位に就く。アグリッピナは流刑地から戻り、裕福な元老院議員のガイウス・サルスティウス・クリスプス・パッシエヌス(西暦44年の執政官(コンスル))と2度目の結婚をする。夫には数年後に先立たれるが、2度目の結婚で彼女は夫の不動産を手に入れた。 クラウディウスの妻メッサリナが放蕩の末に自殺を命じられると、クラウディウス配下の解放奴隷で一手に帝国業務の雑務を引き受けていたパッラスの手助けにより擁立され、西暦49年に結婚して皇后となる。この結婚の目的は自分の息子ネロを帝位につけることであり、そのためにローマの法律でも禁止されていた叔姪婚を強引に実現した。 クラウディウスは有能な政策家ではあったが、夫としてはあまり威厳がなく、また妻の行動には関心はない(あるいは忙しすぎてできない)男だったので、アグリッピナに言われるままに彼女に「アウグスタ」の称号を与えたりした(それまで、この称号が生前に贈られる事はなかった)。彼女が軍事にまで口を出すので、皇后は皇帝と同じ権威があると勘違いしてしまうケルト人の族長もいたといわれる。 また、この時期に彼女は自分の野心、すなわち息子ネロを皇帝にさせるべく様々な布石を置いている。当時コルシカに島流しになっていたルキウス・アンナエウス・セネカをローマに呼び戻してネロの側近として登用したほか、ネロの軍事的な基盤として近衛軍団に注目し、同じくネロの側近としてブッルスを取り上げた。そして、クラウディウスに働きかけてネロを養子にした反面、クラウディウスの実子ブリタンニクスを孤立化させるなどの陰謀も行った。そして西暦54年、クラウディウスが毒キノコで死去すると、ネロがローマ皇帝となる。クラウディウスの死因については、古代ローマに限らず現代の歴史家も、アグリッピナが暗殺したのではないかとも指摘している。 ネロの治世、そして最期ネロを帝位につけた後、アグリッピナは政治に色々と口出しようと試みる。しかし彼女の横柄な干渉は、皇帝として独立心が芽生えてきたネロとの間に確執を生み、やがて嫌われて皇宮から蹴りだされ、最後にはネロの命令で暗殺されてしまう。 ネロはアグリッピナとともにネアポリス(現:ナポリ)に旅行し、近郊のバイエア(現:バーコリ)の別荘で母をもてなした。アグリッピナがバイエアとはナポリ湾を挟んで数キロメートルのパウリの自分の別荘に戻ることになると、ネロは豪華な船を用意してナポリ湾を遊覧して帰るよう勧めた。息子の提案にアグリッピナも従い、陸路で帰る予定をやめて、ネロが用意した船で帰ることにした。 ところが、この船は壊れやすい作りになっており、船が湾の半ばに差し掛かると壊して沈没させる計画であった。ネロは母后を溺死させようとしたのである。しかし、この計画はアグリッピナが泳ぎが達者だったことで失敗する。アグリッピナは九死に一生を得たことを伝える使者をネロの元に派遣するが、ネロは使者が短剣を所持しているのを理由に、アグリッピナは刺客を送り込んだと罪を着せる。皇帝暗殺の容疑をかけられたアグリッピナは、パウリの邸宅で皇帝の派遣した近衛兵によって殺された。 殺されるときに、近衛兵たちに向かって、アグリッピナは、股(あるいは腹)に指をさし「刺すならここを刺すがいい。ネロはここから生まれてきたのだから」と言い放ったという。 後世の評価
その他
系図
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