太田博光
太田 博光(おおた ひろみつ)は、日本の男性アニメーター、キャラクターデザイナー、アニメーション演出家である。 略歴交際していた女性がアニメーションの「仕上げ」のアルバイトをしていたために、本人も興味本位で仕上げの仕事を始める。その後、彩色前の動画に魅力を感じ、プロダクションに動画作業への配置転換を直訴する。課題で出された「馬の走り」の原画を難なく割ったために、改めて動画スタッフとして採用された。 原画に昇格後、グリーンボックスに移籍。当時、同スタジオに所属していた、村中博美、なかむらたかし、等の仕事に感銘を受ける。台湾への海外発注での現地原画スタッフの指導を兼ねた出向において、作画監督のクレジットを得る。 帰国後、元請け前のAICに参加し、外注としてAIC受け『モスピーダ』等のテレビアニメーションの原画で活躍。AICが自社でOVA製作を開始すると、合作『サンダーキャッツ』で仕事をともにしていた演出家・長谷川康雄からの指名でOVA黎明期の主要作品でメイン原画マンを務めた(『ウォナビーズ』作画監督の担当予定はアニメ雑誌で発表されるも諸々の事情により原画担当に留まる)。 ナック作品に参加したさいの制作担当者から請われる形で、新興のアニメーション製作会社・アウベックにフリーランスとして籍を置き、元請け、外注作品を含め多くのアウベック作品に参加。OVA『アルテア』、劇場『逆襲のシャア』の仕事もアウベック受けでので原画参加である。アウベック製作のOVA『ぬ〜ぼ〜 消えたメダル』で監督・脚本・キャラクターデザインの3役を務め、これが初監督、初キャラクターデザイン作となる。同時期に『ハローキティ』の劇場アニメの作画監督も手がけ、メカもの、美少女ものといった所謂マニア向け作品から、児童向けアニメへの趣向が顕著になっていく。 アウベック倒産の前後、スタジオマリーンに移籍し、『あしたへフリーキック』に参加。作画から演出へと仕事のフィールドを移し、マリーン解散後は、亡くなる2002年までフリーの演出家として、数多くの作品の各話演出・絵コンテで活躍した。 参加作品テレビアニメ1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
劇場アニメ1980年代
1990年代
OVA1980年代
1990年代
PV1980年代
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