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外山豊造

外山 豊造
生誕 1880年10月16日
和歌山県
死没 (1937-02-15) 1937年2月15日(56歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1900年 - 1935年
兵科 歩兵科
最終階級 陸軍中将
指揮 歩兵第63連隊長
参謀本部演習課長
歩兵第28旅団長
朝鮮憲兵隊司令官
台湾守備隊司令官
第9師団長
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外山 豊造(とやま ぶんぞう、1880年明治13年)10月16日[1][2] - 1937年昭和12年)2月15日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

和歌山県出身[1][2]。外山民次郎の二男として生まれる[1]陸軍幼年学校を経て、1900年(明治33年)11月、陸軍士官学校(12期)を卒業[1][2][3]。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第8連隊付となる[1][3]。1909年(明治42年)12月、陸軍大学校(21期)を卒業し参謀本部出仕となる[1][2][4]

1913年(大正2年)8月、歩兵少佐に昇進し歩兵第15連隊付となる[1]。1914年(大正3年)6月、歩兵第7連隊大隊長となり、陸大教官、兼参謀本部員を務め、1918年(大正7年)4月、歩兵中佐に進級[1]。同年11月、参謀本部員に転じ、陸軍兵器本廠付を経て、1921年(大正10年)7月、歩兵大佐に昇進し歩兵第63連隊長に就任した[1][4]。1922年(大正11年)8月、参謀本部演習課長に転じ、陸大教官を経て、1926年(大正15年)3月、陸軍少将に進級し、同年12月、歩兵第28旅団長となった[1][2][4]

1929年(昭和4年)8月、参謀本部付となり、1930年(昭和5年)3月、朝鮮憲兵隊司令官に就任[1][2][4]1931年(昭和6年)8月、陸軍中将に進み憲兵司令官に就任[1][2][4][4]十月事件の対応に当たった[2]。1932年(昭和7年)2月、台湾守備隊司令官に転じ、1934年(昭和9年)8月、第9師団長に親補された[1][2][4]。1935年(昭和10年)12月に待命、翌月、予備役に編入された[1][2][4]

栄典

親族

  • 義弟 羽藤辰一(陸軍中佐)[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『日本陸海軍総合事典』第2版、107頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸軍将官辞典』499頁。
  3. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』165、167頁。
  4. ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』167頁。
  5. ^ 『官報』第5484号「叙任及辞令」1901年10月11日。
  6. ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。

参考文献

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
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