嘉慶帝
嘉慶帝(かけいてい)は、清の第7代皇帝。諱ははじめ永琰(えいえん)、即位後に顒琰(ぎょうえん)と改めた。廟号は仁宗(じんそう)。在世時の元号の嘉慶を取って嘉慶帝と呼ばれる。 生涯乾隆25年(1760年)、乾隆帝の十五男として生まれる。乾隆60年(1795年)、85歳の乾隆帝から譲位を受けるが、乾隆帝は太上皇となっても実権は手放さなかったため、嘉慶帝は飾り物の皇帝に甘んじた。 乾隆帝が嘉慶4年(1799年)に崩御すると、嘉慶帝は真っ先に乾隆帝が重用していた奸臣ヘシェン(和珅)を誅殺した。周りの人間全てがヘシェンのことをろくでもない奸臣であると見抜いていたのに、耄碌した乾隆帝だけは信任し続けたため、乾隆帝が生きている間はどうしようもなく、ヘシェンは国家に入るべき歳入のかなりの額を懐に入れていた。ヘシェンから没収した財産は、実に国家の歳入の10~15年分に当たったといわれている(当時の清は世界のGDPの3割を占めており、ヘシェンは世界最大の富豪だったことになる)。 乾隆中期以降の清は綱紀弛緩が甚だしかった。嘉慶帝はこれを修繕しようと試みたが、あまり芳しい結果は得られなかった。この頃の中国の人口は、100年前が2億ほどだったのに対して、4億を突破していた(全体的にみれば比較的平和な状勢が続いたこと、この頃に新大陸原産の作物であるトウモロコシやサツマイモおよびジャガイモ、落花生などが導入され、農業生産とカロリーベース食料自給率が伸びたため)[1]。しかしその一方で、農業耕地はわずか1割ほどしか増加しておらず、必然的に1人当たりの生産量は低下し、民衆の暮らしは苦しくなっていった。そうした民衆は匪賊となり、白蓮教を紐帯とすることで政府に対する反乱となった。このような反乱は乾隆末期から起きていたが、中でも天理教徒の乱ではわずか80名足らずながら反乱軍に紫禁城にまで踏み込まれ(癸酉の変)、矢を壁に射立てられた(この跡は現在でも残っている)。 嘉慶帝は『己を罪する詔』(皇帝自身による自己批判文書)を出し、事態収拾に当たったが上手くいかなかった。朝廷軍の満州八旗は三世の春の長い平和により堕落して実戦にはまるで弱く、反乱軍を相手に連戦連敗であった。窮した朝廷は反乱軍討伐を郷勇と呼ばれる義勇兵軍団に頼ることになった。この方策は成功し、何とか反乱を鎮圧することができた。 これと並行して、海では海賊が横行し、清の船を襲っていた。これは艇盗の乱と呼ばれる。この海賊の後ろ盾には西山党の乱で大越の支配者になった阮氏三兄弟がいた。賊と阮氏の関係は解りきっていたが、阮氏に訴えても知らぬ存ぜぬで通された。政府は対策を李長庚に命じた。1777年以後、シャムに亡命していた広南阮氏の生き残り阮福映は、粘り強く西山朝への攻撃を継続していたが、西山朝の内紛を衝き、10年の戦いの後に西山朝を打倒した。事態は好転し、後ろ盾を失った海賊を李長庚は討ち滅ぼした。嘉慶9年(1804年)に嘉慶帝は阮福映を越南国王に封じ、越南国(ベトナム)を正式の国号とした。阮朝は最初、清に「南越」(中華文明圏に属する越の国が南部にあり、この越の国は大きく、南の天下を支配している)の国号を求めたが、嘉慶帝は「越南」(越のさらに南方にある国)という国号を与えた。実効支配が「越」の南部に留まっている現状への不満とも取れる「南越」という国号に、阮朝の北進を志向した領土的野心を警戒したという見方もある。 こうして清は何とか乱を乗り切った。しかし、以前は「万に満てば敵すべからず」と言われた満州人の軍隊が完全に堕落し、もはや全く役に立たなくなったことが露見したため、多数派の漢人に対する満州人の武断支配に大きな不安を抱かせた。また、反乱を鎮圧した郷勇が発展して、のちに曽国藩や李鴻章によって作られる軍閥となり、満州人の地位を危ういものとした。これに加え、南の阮福映の後ろにはフランスが迫ってきており、さらにこの頃からイギリスから密輸入されるアヘンが急激に増大するなど、鎖国の夢を破る西欧諸国の足音がひしひしと迫ってきていた。これに対して嘉慶帝は増加しつつあったキリスト教徒を弾圧するなど対策を取ったものの、アヘンがのちのアヘン戦争を引き起こし、郷勇から発展した軍閥政権が清を滅ぼしたことを考えると、清の滅亡の萌芽はまさにこの時代にあったと言える。 嘉慶帝は嘉慶25年(1820年)、避暑山荘で急死した。死因は記録に残されていないが、肥満体だったことから心血管疾患、もしくは脳卒中だったと考えられている。陵墓は清西陵にある。 后妃正室
側室
登場作品
脚注外部リンク
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