唐沢弘光
唐沢 弘光(唐澤 弘光、からさわ ひろみつ、1900年 - 1980年[1])は、日本の撮影技師、映画監督である。帝国キネマ演芸在籍時代に映画監督を務めているが、やがて撮影技師に専念した[2]。俳優大河内傳次郎、監督伊藤大輔とのトリオを組んだ傑作群で知られるカメラマンである。 人物・来歴1900年(明治33年)に生まれる[1]。 1918年(大正7年)、天然色活動写真(天活)に入社[1]、日暮里撮影所撮影部で助手として働く。1919年(大正8年)に開設された天活巣鴨撮影所に異動、1920年(大正9年)、同社は国際活映(国活)に吸収されるが、同社の大阪支社と小阪撮影所を引き継いだ帝国キネマ演芸(帝キネ)に参加する[1]。 帝キネ在籍時の1921年(大正10年)、中川紫郎監督の『怪談布引滝』で技師に昇進する[1][2]。1925年(大正14年)、帝キネ芦屋撮影所製作の『白河小天狗』前篇・後篇で映画監督としてデビューする[2]。1927年(昭和2年)までに24本を監督した[2]。同年、日活大将軍撮影所に移籍した。 1927年(昭和2年)、日活大将軍移籍第1作は、伊藤大輔と初のタッグである『下郎』であった[2][3]。大河内・伊藤・唐沢のトリオは、同年12月27日公開の『忠次旅日記 御用篇』からである[2]。 1934年(昭和9年)、前年に設立されたピー・シー・エル映画製作所に移籍[1]、東京世田谷の祖師谷に居を移す。1935年(昭和10年)には山本嘉次郎監督の『エノケンの近藤勇』を手がけた[2]。 第二次世界大戦終結後のフィルモグラフィは不明であるが、教育映画やテレビ映画を手がけた[1]。 エピソード唐沢は昭和3年に伊藤大輔と組んだ『新版大岡政談』で、大河内傳次郎の「丹下左膳」を当たり役としているが、大河内は強度の近眼であったため立ち回りがすさまじく、並のキャメラマンでは大河内の疾走をフレームに収められなかった。 そこで唐沢は、この映画のためにゼンマイ式アイモキャメラを用意。手持ち用の小型キャメラを駆使して、左膳と一緒に駆け回りながら撮影するという手法を編み出した。大河内の鬼気迫る韋駄天走りと、手持ち撮影ならではの迫力は、ラッシュ試写でこれを観た伊藤監督以下スタッフを圧倒させ、また公開されるや大評判となった[4]。 フィルモグラフィ帝国キネマ演芸特筆以外は撮影技師である[2]。
アシヤ映画
帝国キネマ芦屋撮影所
日本映画プロダクション奈良撮影所
日活大将軍撮影所
日活太秦撮影所
P.C.L.映画製作所
東宝映画東京撮影所
参考書籍註外部リンク |