呂号第百十一潜水艦
呂号第百十一潜水艦(ろごうだいひゃくじゅういちせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂百型潜水艦(小型)の12番艦。 艦歴1942年(昭和17年)の昭和17年度計画(マル急計画)[1]により、1942年8月20日、川崎重工業神戸造船所[3]で起工。1943年(昭和18年)1月26日進水。1943年7月19日に竣工し、二等潜水艦に類別[1]。同日、佐世保鎮守府籍となり[4]、訓練部隊である第一艦隊第11潜水戦隊に編入された。 10月31日、第六艦隊第8潜水戦隊第30潜水隊、南西方面部隊潜水部隊に編入[4][5]。 同日、呂111は呉を出港。11月16日にシンガポールに寄港した後、23日にペナンに到着。12月6日、ペナンを出港し、ベンガル湾に進出。[5]。23日、北緯11度11分 東経80度11分 / 北緯11.183度 東経80.183度のマドラス南東沖で、スウォンジーからカルカッタに向かっていた12隻の船から編成されたJC30船団を攻撃。150トンの爆薬と1,983トンの一般貨物を輸送中の英貨物船ペシャワー(Peshawar、7,934トン)に魚雷1本が命中。2時間後に同船は沈没した[6][5]。29日、ペナンに到着[5]。 1944年(昭和19年)1月7日、呂111はペナンを出港し、セイロン島東方沖に進出。10日、エレファント岬付近に磁気機雷10個を敷設[5]。その後ペナンに戻った。 2月1日、呂111はペナンを出港し、セイロン島周辺海域での機雷敷設任務に従事。23日、ペナンに到着。 3月7日、呂111は魚雷艇第451号魚雷艇、第455号魚雷艇の護衛を受けてペナンを出港。出港後に2隻と別れ、カルカッタ沖に進出。16日、北緯20度54分 東経89度36分 / 北緯20.900度 東経89.600度のベンガル湾で、カルカッタからチッタゴンに向かっていたHC44船団を発見し、雷撃。魚雷は印貨物船エルマデマ(Elmadima、3,962トン)に命中し、同船は船体が二つに分断されて沈没した[6][5]。25日、ペナンに到着。同日、第30潜水隊の解隊に伴い、第7潜水戦隊第51潜水隊に編入された。 28日、呂111はペナンを出港し、4月1日に佐世保に到着して整備を受ける[5]。 5月22日、呂111は佐世保を出港し、31日にトラックに到着。6月4日、アドミラルティ諸島北方沖に進出するためトラックを出港。6月7日、トラック南方の散開線を航行中との報告を最後に消息不明となる[1]。 アメリカ側記録によると、6月11日、アドミラルティ諸島北方沖で米護衛空母ホガット・ベイ(USS Hoggatt Bay, CVE-75)搭載のFM-2 ワイルドキャットが海上に漂う重油の帯を発見[7]。ホガット・ベイを護衛していた米駆逐艦テイラー(USS Taylor, DD-468)が調査に向かう。まもなくテイラーは潜航中の潜水艦をソナー探知。爆雷を投下した。投下後、テイラーは潜水艦を探知しやすくするため停止。1541、先ほどの爆雷攻撃によりたまらず浮上してきた潜水艦を、前方2200mの距離で発見。テイラーは主砲と機銃により攻撃を行い、主砲弾5発、機銃弾多数が命中するのを確認した。1546、潜水艦は艦尾から沈没していった。テイラーは浮かび上がってきた重油の帯の上から爆雷を投下し、1558に2回の大爆発音を聴取した[8][1][5]。これが呂111の最期の瞬間であり、艦長の中村直三大尉以下乗員54名全員戦死[9]。沈没地点はカビエン北方沖、北緯00度26分 東経149度16分 / 北緯0.433度 東経149.267度。 7月12日、サイパン方面で亡失と認定され、8月10日に除籍された。 撃沈総数は2隻で、撃沈トン数は11,896トンである。 歴代艦長艤装員長
艦長
脚注参考文献
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