吉田喜八郎
吉田 喜八郎(よしだ きはちろう、1896年(明治29年)2月10日 - 1964年(昭和39年)6月30日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 経歴北海道出身。仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1917年(大正6年)5月、陸軍士官学校(29期)を卒業。同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第1連隊付となる。陸軍騎兵学校を卒業、さらに1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を優等で卒業し騎兵第1連隊中隊長に就任。 1928年(昭和3年)3月、陸軍省軍務局付勤務となり、軍務局課員、フランス駐在などを経て、1931年(昭和6年)8月、騎兵少佐に昇進。1932年(昭和7年)1月、フランス大使館付武官補佐官に就任し、騎兵第23連隊付、軍務局課員を歴任し、1936年(昭和11年)8月、騎兵中佐に進級。1937年(昭和12年)8月、兵科を航空兵科に転じ航空兵中佐となり陸軍航空本部員に就任。1938年(昭和13年)3月、航空兵大佐に昇進し航空兵団参謀に就任した。 1939年(昭和14年)3月、飛行第98戦隊長に発令され、さらに第2飛行集団参謀長に転じ、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級。同年11月、陸軍航空技術研究所総務部長となり太平洋戦争を迎えた。 1942年(昭和17年)9月、大本営航空通信保安長官となり、1943年(昭和18年)5月、第1航空軍参謀長に異動。1944年(昭和19年)3月、新設の第10飛行師団長心得に着任し、首都防空の任を遂行した。1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進み第13飛行師団長に親補され南京で終戦を迎えた。1946年(昭和21年)6月に復員した。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。 脚注
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