吉田たすく吉田 たすく(吉田祐[1]よしだ たすく、大正11年(1922年)4月9日 - 昭和62年(1987年)7月3日)は日本の染織家・絣紬研究家。廃れていた「組織織(そしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」を研究・試織を繰り返し復元した。風通織に新しい工夫を取り入れ「たすく織 綾綴織(あやつづれおり)を考案[2]。難しい織りを初心者でも分かりやすい『紬と絣の技法入門』として刊行する。昭和32年(1957年)・第37回新匠工芸会展で着物「水面秋色」を発表し稲垣賞を受賞。新匠工芸会会員。鳥取県伝統工芸士[3]。 たすくの家系と芸術環境鳥取県倉吉市は、奈良時代、伯耆国の中心として国庁や国分寺が置かれ、江戸時代は鳥取藩主席家老荒尾志摩の領地として自分手政治が行われ、伯耆の国の文化の中心として栄えた。今でも当時の面影を残す多くの蔵が「国の重要伝統的建造物群保存地区」として残っている。そして芸術活動も盛んであった。 山陰はお茶の盛んな地方でもあり、倉吉でも元来武士の家や多少裕福な家ではどこでも日常的にお茶が点てられ飲まれていた。このお茶を通しての文化の交流も盛んで、流派は表千家裏千家などだけでなく山陰地方には不昧流なども流行っていた。(なお、「たすく」はこの不昧流茶道を、佐久子は表千家流を習っている。) 倉吉はそのような文化の地方であったからこそ複雑で芸術的な絣が生まれる土壌ともなったのではないか。また、倉吉には大正時代から「砂丘社」という芸術文化の団体があった。「砂丘社」は大正9年(1920年)に倉吉の中井金三らが創立し、前田寛治、河本緑石、石田利三など鳥取地方の芸術家が集まり展覧会や音楽会、舞踏公演など幅広い分野で活動する芸術復興運動であった。とくに若手の芸術家がよく集まり積極的に活動していた。 伊藤家の家系は、鳥取藩で名医を多く輩出した家柄である。実の祖父・伊藤健蔵は長崎や横浜で西洋医学を学びイギリスに渡り明治3年(1870年)帰国。当時としてはめずらしいイギリス帰りの医者として城下で開業。鳥取県への多大な功績で贈正五位を受勲。義理の息子伊藤隼三を援助し医者へ。隼三のために病室数六十三という県内一の大病院・私立因幡病院[4](後の鳥取県立中央病院)を創立する。 伊藤隼三は伊藤健蔵の庇護のもと東京大学及びヨーロッパで十分な勉強を行い、52歳で京都帝国大学医科大学長に就任し、初期の京大医学部を発展させ、日本の医学界に貢献をする。定年後鳥取に帰郷して地域医療のために献身的につとめた。 伊藤本家を継いだ養祖父・伊藤良蔵も長崎で西洋医学を研鑽した医師である。倉吉市誌にも記載されている文化人で、南画を描くことに長じ、号を旭堂(きょくどう)という。 伊藤家は芸術家の集まるサロンでもあり、地域における情報発信の場所でもあった。伊藤家ではこのような芸術環境に浸り、書画骨董を身近に育ち、芸術家が多くでている。 昭和初期に民藝運動がおこるが、各地を訪れていた民藝運動家の河井寛次郎、柳宗悦、浜田庄司達は戦前から度々山陰を訪れており、鳥取には民藝運動家の吉田璋也の鳥取民芸館も創設された。時には倉吉へも足を伸ばして砂丘社の人たちや民藝運動家とも交流しており倉吉は民藝運動の盛んな町となっていた。伊藤病院を継いでいた兄の伊藤宝城は本人も芸術家であり、多くの芸術家の集まるサロンともなっていたが、吉田璋也の紹介で河井寛次郎、柳宗税、浜田庄司、棟方志功なども訪れている。とくに棟方志功は度々倉吉を訪問して、その都度伊藤宝城とも親交を深めている。昭和31年(1956年)8月にも倉吉に行っており、その時は伊藤宝城にお世話になったお礼にと彩色画を書いている。 たすくはこのような環境で育ち、倉吉中学(現在の鳥取県立倉吉東高等学校)の頃には、美術志向がはっきりし、民藝運動の影響などもあり、たすく流の生き方が確立されてく。戦時中に東京研数専門学校物理科に入学。 民藝運動昭和20年(1945年)、東京研数専門学校を卒業し、倉吉に帰った「たすく」は倉吉の芸術文化の中心であった「砂丘社」に加わり幅広い分野の人たちと親交を深めていった。 まだ戦後すぐで世の中の人の心もガタガタで荒んでいる頃、たすくは砂丘社に所属している若手や、長谷川富三郎と実家の伊藤病院の一室で話し合い「創作郷土玩具発表会」を開く事にした。この「創作郷土玩具発表会」は、なにも手につかない戦後の倉吉の人たちの心を慰め喜ばれた。このとき大阪から倉吉に疎開していた日本画の画聖・菅楯彦(1878-1905 昭和32年 芸術院賞恩賜賞 昭和37年 大阪市初の名誉市民)も立ち寄り数点購入しているが、それはまた、たすく達若者にも光栄なことであった。 伊藤家へ度々訪れていた版画家の長谷川富三郎は、姫路市に生まれ、鳥取師範学校を卒業後、倉吉の明倫小学校に赴任。はじめて教員になって倉吉に赴任したときにしばらくの間伊藤家に寄宿しており、懇意にしていた。長谷川は砂丘社に所属している中で民藝運動に触発され、河井寛次郎を師と仰ぎ、棟方志功を兄弟子として慕うようになる。長谷川は当初は油絵を描いていたが、棟方志功の勧めで版画家になる。 兄伊藤宝城や砂丘社、長谷川富三郎等の影響で民藝運動に入っていった「たすく」は、なかでも染織、陶芸を好み、特に河井寛次郎を尊敬していた。また、戦後に棟方志功が倉吉訪問の時は、実家の伊藤家で度々歓談している。この頃、版画家で民藝運動に携わっていた長谷川富三郎へも度々訪問している。 妻・吉田佐久子吉田佐久子は吉田四郎、八千代の長女として大正13年(1924年)4月28日に生まれる。 祖父の吉田新蔵は鳥取藩主席家老 荒尾志摩守の上級家臣。芸術家でもあり書画骨董を好んでいた。鍛治町一丁目の表通りの過半が吉田新蔵所有の貸家であったという。佐久子の父で、新蔵の長男吉田四郎は倉吉市鍛冶町で吉田病院を開いていた。四郎も芸術愛好家であり、佐久子は小さいときから芸術に接して育ち感性が自然と身に付いていった。3人姉妹になっていた昭和6年(1931年)、佐久子が小学1年生の時に父の四郎死去。母の八千代と祖母の「こと」により育てられる。子供の頃からピアノを弾き、声楽が専門であった。鳥取県立倉吉高等女学校(現在の鳥取県立倉吉西高等学校)を首席で卒業。 小学校の恩師であり版画家で民藝運動に携わっていた長谷川富三郎を度々訪問し、芸術や民藝運動に一層興味を持つようになる。そして佐久子もまた、河井寛次郎作品が一番の好みであった。時には長谷川と共に京都の河合寛次郎を度々訪問。河合の娘と同い年であったことから河井寛次郎夫妻に可愛がられた。 佐久子は終戦の年(1945年)の暮れ頃、長谷川富三郎に「たすく」を紹介される。「たすく」も「佐久子」もお互いが知り合う前から恵まれた芸術環境の中で生きており、共に芸術・民藝運動・河井寛次郎が共通項目であり、このような二人が接近するのはごく自然のことであろう。 半年後の昭和21年(1946年)6月、長谷川の媒酌で結婚。吉田家は娘ばかりであったのでたすくは婿養子となり姓を吉田へ。 染織家へ昭和21年(1946年)、終戦直後、結婚の翌昭和22年(1947年)、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地解放・宅地解放などにより、沢山の借家を持っていた吉田家も伊藤家もそれらは皆無くなっていったのである。佐久子にとっても、「たすく」にとっても新婚早々、急激に減収し、はじめて経験する窮乏生活となったのである。 吉田佐久子と結婚したあと、倉吉市東仲町に「諸国民芸の店 - 風土」を開く。店には柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司達の指導した湯町や牛の戸などの器や諸国の民芸品、地元の若手芸術家が持っていた品の他、近くの窯場で「たすく」が絵付けをしたものが並んだ。 民芸品店を営業する中で、絣や貴重な風通織の布や裂も集まってきて、織物への興味が更に深まっていき、地元の宍戸実治に勧められ木綿絣を、吉田正の母に高機の指導を受け機織りをはじめる。昼間は民芸品店、夜は織物の毎日が始まったのである。 翌年、国画会工芸部に織物を出品し、その後数年間出品をする。昭和25年(1950年)に「たすく」は倉吉町立西中学校教師となり、夜はいつも二人で遅くまで機織りをする毎日であった。 風通織江戸末期に始まった倉吉絣は、明治になって盛んに織られ、その当時倉吉地方の各家庭では自宅で使う木綿の着尺や布団生地はどれも、家の女手で織られた。 倉吉の娘は皆機(はた)を習った。器用な娘は平織りの絣とは違った織物「絵絣」「そしき織」「風通織」を織った。段々複雑なものが増えるに従い、「縞帳」(自分の織る織物の参考に柄を集めて帳面に貼ったもの)には縞より絵絣が目立つようになっていった。絵絣は字のごとく絵のような絣で松、竹、梅、鶴、亀、大黒や、様々な自然物、器具、字などを柄に取り入れたもので、上手なものはまさに手で書いたような織物あった。 明治初年頃稲を扱く稲扱き千刃(いなこきせんば)が倉吉で開発され、西日本を中心に全国に広まっていったがその稲扱千刃の行商人によって倉吉の絵絣は、全国へ広まっていったのである。その柄の巧みさで各地でもてはやされ、より複雑なものほど高価に売れた。そして更に複雑な織物をめざすようになっていく。これが倉吉の女達の貴重な内職収入源ともなった。 織機は縦糸を上げたり下げたりしてその間に横糸を通して織っていくのであるが、その上げ下げする器具を綜絖(そうこう)といい、2枚使うものが平織りとなり、綜絖が多くなるほど複雑な織物が織れる。 倉吉では平織りの二枚綜絖でなく四枚綜絖で平織りでは出来ない綾織り、浮き織など様々な紋織りや浮き柄の地紋があらわれ、秋田織、八反織、一楽織、星七子織、鎖織、四目織等の名が残っている。中には六枚綜絖、更に高級な十枚綜絖の組織織(そしきおり)も織られるようになった。このような織物を総称して風通織といった。 風通織は表裏別の糸を使い二重組織で織られ、表裏の糸が入れ替わり、交差しているところ以外袋状になっているのが特徴である。一般的に平織りしか織られていなかった時代に複雑な織物は大きな驚きであった。中でも不思議な織り方をする風通織に対しては憧れと畏敬の念をもたれたのである。面倒な組織織は誰でも織れるものではなく、ごく限られた人たちに織継がれていったが、その中の更にごく一部の人により織り方をつたえる伝書が書かれた。 しかし大正時代になると手織りは工業生産に押されるようになり、また、倉吉絣はその柄が手で書いたように高度であったため機械化をすることも出来なかったために絣の仕事は消えていったのである。倉吉地方で誇らしく織られた風通織は、古い家の片隅か、小裂の布として残っているだけとなっていった。 織物の伝書吉田たすくは民藝運動と「諸国民芸の店 - 風土」をやっている中で、残された小裂きの風通織や絣のもつ奥深い美しさにいとおしさを感じ、なんとか倉吉で再現させよう、現代生活にあう新しい絣、新しい織物を作ろうと倉吉絣の魅力にとらわれていったのである。 昭和30年(1955年)頃、倉吉の旧家から辛うじて残っていた数冊の織物の伝書を入手する。伝書の中には落丁しているものや虫食いで穴が空き字も読めず、ページも捲れないほどのものや、判読不能なものもあり読むことすら難儀なものもあった。
これらを苦心の末、具体的な織りと組織図等をふくみ書籍としてまとめ終え、「倉吉地方明治中期 そ志き織と風通織」として完全版として発刊できたのは、 吉田たすく死後一周忌であった。 その活動と業績数箇所から手に入れた伝書を解読しようとしたが、昭和30年(1955年)頃には倉吉には風通織を織る人はなくなっており、伝書の文面を見せてもこの複雑な織物の解読できる年配者もいなくなっていた。毎日の織物の合間に日本各地へ出かけ機織りの参考したり、四枚綜絖、八枚綜絖、風通織の伝書を繙き(ひもとき)試織を繰り返し解読していく。 昭和35年(1960年)に沖縄へ行き上布・絣・紅型など染織の探求を行う。この頃より数年間、浪速短期大学(現在の大阪芸術大学短期大学部)の非常勤講師として染色指導を行う。 また、この頃に平松保城(現・東京芸術大学名誉教授)と知り合いになる。たすく氏の作品に惚れ込んだ平松は、「このような愛情のこもった手仕事は、倉吉の土地に残しておくだけではもったいない広く知らしめたい」と阪急百貨店で個展を開くよう提案。平松の紹介で、大阪梅田の阪急百貨店にて「吉田たすく手織展」第一回を昭和36年(1961年)に開催し、多くの反響を得る(以後毎年開催)。 同年「たすく手織研究所」を開き、工房で後輩を指導しつつ、工房を中心とした生活工芸にも芸術性を高めていく。京阪神からは常に数名が弟子入りして倉吉に住んでいた。また、機の改良を行い現代の狭い部屋でも使えるようにコンパクトにたためる織機なども考案して販売している。創作・考案することには優れていたが、宣伝は不得手で表に出ることもなく、静かにこつこつと創作していく人であった。 中学教師の傍ら精力的に染織の創作活動を続け、大阪や東京・銀座での毎年の個展などでファンは増えていった。昭和40年(1965年)東京池袋の西武百貨店美術画廊で個展を行い以後4年にわたり5回行う。その後は銀座8丁目千疋屋の隣りの銀彩堂画廊にて、6年間行いその後は銀座3丁目越後屋画廊で継続開催。 昭和47年(1972年)にインドネシアへ織物研究に行く。翌々年には後に古代染織である「貝紫」を発見した吉岡常雄を団長に、染織家で人間国宝の志村ふくみ、型絵染めの伊佐利彦、染司よしおかの吉岡幸雄、染色家皆川月華、沖縄の紅型から京風の紅型を生み出した初代栗山吉三郎など総勢28名と共にメキシコへ織物研究に行く。 倉吉の伝書を解読し織を試みる一方、沖縄・タイ・インドネシア・メキシコなどへ出かけ織物研究をする中で、曲線織・斜め織を考案。さらにこれらの織り方と綴れ織を併用し、これらの組織を紬の着物に織り込みなどを生かす中から吉田たすくの紬パターンや技も生まれ、現代の着尺や帯やストールなどに使える布として「たすく織」「綾綴織(あやつづれおり)」が生まれていった。 作品どこへも弟子入りをせずに独自にやり、師匠についたりして教わってこなかったことがかえって自由な発想を生むようになったようである。そして紬織を中心に研究推敲を重ねた諸技法、染法を駆使して、詩情豊かで麗しく郷土の香りを充分に活かした素朴で哀愁に満ちた作品を毎年続けて発表し衆目を浴びている。 シルク、ウール、綿などの天然繊維しか使わない。時には自分で手でわたを紡いで糸を作り、それを天然の植物を煮しめて絞り出した染料で染めて織りだすという全行程を一貫しておこなうのであった。染料としては柿の葉、玉葱の皮なども使っている。着物が代表作であるが、帯、ストール、マフラー、ネクタイ、のれん、テーブルセンターなども手掛け、壁掛けにもすぐれた作品を残している。 昭和50年(1975年)、第30回新匠工芸会展に四季シリーズのタペストリー「春」「夏」を出品し入選、佳作賞を受賞。翌51年(1976年)、第31回展に「秋」を出品し、入選。続いて翌52年(1977年)、第32回展に壁掛『冬』(倉吉博物館蔵)を出品して、一般出品者として最高の新匠賞を受賞し新匠工芸会会友に推挙される。 さらに第37回新匠工芸会展では着物『水面秋色』『春秋』を出品。『水面秋色』で新匠工芸会最高の栄誉である稲垣賞を受ける。このように立て続けに賞を取り、そして異例の早さで会員に推挙された。 この「四季シリーズ」は木綿糸とウール糸を使い、春夏秋冬の四季を組織織りで抽象表現した壁掛けで、それぞれが幅0.8m、長さ4.5mととても大きな作品である(倉吉博物館所蔵)。 人物なにも言わなかったが「品(ひん)」を大切にした人物であった。無意識のうちに品(ひん)のあるものを選び無意識のうちにそれが表現されている。 たすくの作品は人柄そのものである。山陰の風土から来るものなのか地味である。自分を良く見せようと人の前に出て騒ぐ、はねるといった派手なところは少しも無い。それだけによく見ると、作者の細やかな愛情が至る所に感じられる。何気ない中に気品がある。控えめな人柄が使う人をひきたてる。使えば使うほど人になじみ、生き生きとしてくる工芸の本質がそこにあった。 1969年頃、東大寺の清水公照大僧正を自宅に迎え話を伺う中で、たすくの染織に対する姿勢に好感を持った大僧正より「不染」の号を名付けられた。また、「おらずやのたすく」ともいわれた。「不染」の号を得て、たすくはとても感激し大切にしていたという。 たすくは蛍と月見草をこよなく愛していた。そして月見草の咲き始める頃、1987年7月3日、東京国立がんセンターにて、食道癌のため逝去。東大寺管長・清水公照師より戒名「天心院梶葉祐光不染居士」と命名された。 東京国立がんセンターに、食道癌で入院。 研究・指導たすくは倉吉市立西中学校、倉吉市立久米中学校、大栄中学校などで美術を教えているが、中学の美術の教諭で織物の教育をはじめた最初の先生でもあった。静かでゆるやかな口調でやさしくさりげなく生徒の力量をくみ上げるやり方で多くの生徒の美的感覚を呼び起こす教育を行っている。織物や美術を習った多くの生徒が今も各地で活躍をしている。生徒にはタピストリー作家・麻生三和子や漫画家・青山剛昌などがいる。 朝夕暇があると野山へ散歩へ出かける。そして庭にはその名もないような山野草が。一見雑然と植えられているようだが、発見と配置の妙であろうか名もない草花の魅力を心地よい配置で眺める事が出来る。そしてそれらの山野草は皆、原料としての研究材料ともなっていたのある。たすくは、染めているのではなく、自然の草や木の実からすばらしい色が生まれ、それを草木に染めてもらっていると言っていた。 自身が苦心して解読したり創作した染織技術は絣を織りたいと思う人々を増やしていき、現在では倉吉にも機の音が少しずつ聞かれるようになった。この、吉田たすくの「綾つづれ織」は三男の吉田公之介に受け継がれている。吉田公之介は、2004年鳥取県伝統工芸士に認定され、2006年にはたすくと同じく新匠工芸会会員に推挙され今に至る。 メディア約20年の歳月を費やしてようやく伝書を解読し、四枚綜絖・八枚綜絖・風通織などを実際に織って実証していく中で自身のものにした。それらを昭和50年(1975年)に一冊の本にまとめ『倉吉地方明治中期 そ志き織と風通織』を刊行する。 織物の制作のかたわら、倉吉地方の伝統の織物の解説書の著述をはじめ雑誌や新聞でも染織の研究や染織にまつわるコラムなどを記している。一例として、万葉集を題材に「染と織の万葉慕情」を日本海新聞に昭和57年(1982年)3月5日から昭和59年(1984年)3月30日まで毎週、2年にわたって100回連載。 月刊「染色α」の創刊時には依頼され「紬織のポイント」を6回連載。そして、さらに昭和59年(1984年)11月号から6回の二度にわたり紬織、絣織の技法を図説で発表。これについて全国で織物をしている読者から反響が多く、これを元に再度内容を洗い直し、「誰が読んでもわかりやすい本にする事」を第一に考えて、この技法のすべてを新人及び後輩指導のための技法書として一冊の本にまとめて『紬と絣の技法入門』を刊行する。誰かに見せ手直しをしつつ10年近くにわたってこつこつと書き続けた労作である。しかし、その発刊を待たずに昭和62年(1987年)7月3日死去。 昭和56年(1981年)にはNHKの『新日本紀行』で「絣の似合う町倉吉」を放映したが、織物を復活創造しているたすくと公之介が出演。そして24年後それを追いかけた番組『NHK新日本紀行ふたたび』(2005年)に在りし日のたすくと公之介が再び出演している。 年譜
代表的な作品
代表的な著書と著述
脚注出典
参考文献
外部リンク
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