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吉本光藏

吉本 光藏
(よしもと みつぞう)
吉本光藏
生誕 1863年11月16日
江戸
死没 (1907-06-11) 1907年6月11日(43歳没)
所属組織 大日本帝国海軍軍楽隊
軍歴 1879年 - 1907年
最終階級 軍楽長
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吉本 光藏(よしもと みつぞう・こうぞう、1863年11月16日文久3年10月6日[1] - 1907年明治40年)6月11日)は、日本作曲家海軍軍人。海軍軍楽隊の第1期軍楽通学生に選抜され入隊しジョン・ウィリアム・フェントンおよびフランツ・エッケルトに師事する。ドイツ留学後に海軍軍楽長となったほか、『君が代行進曲』など日本の軍楽を多数作曲した。江戸出身。

人物

瀬戸口藤吉によれば、質性温和で音楽頭脳の能い進取の気性に富む勉強家であった。また、エッケルトに嘱望される逸材であり、専門楽器クラリネットや作曲・編曲の指導を受けるばかりでなく1882年(明治15年)には既に音楽教官としての特別教育を受けていた[1]

海軍からの辞令でドイツに2年間留学し、ベルリン芸術大学音楽院(: Königliche Akademische Hochschule für Musik zu Berlin)に入学しGustav Roßbergの指導を受けるなど学究生活に勤しむほか、オペラ座や劇場で催される音楽会を見聞しヨーロッパ音楽の魅力を吸収した。留学の資金は、軍より駐在手当ておよび奨学金等の諸経費として年間2300円(当時の為替レート1円あたり2マルクの近傍[2]であるから、凡そ4600マルク相当)が支給された。

ドイツ留学中には、エッケルト家と誕生日プレゼントを交換するなど深い交流があり、エッケルトが李王朝の軍楽隊教師に招かれる際には1900年12月12日フリードリッヒ街停車場にて見送りをしている[3]。またドイツ留学に派遣されていた比留間賢八幸田幸瀧廉太郎との交流もあった[4]

来歴

名前の読みについて

吉本光蔵の剣帯と長剣袋。M.Y.のイニシャルがある。

光蔵の日本での正しい読みは‟みつぞう”であるが外国人には発音し難いため、 ドイツ留学時には‟こうぞう”としていた。このため海外出版の楽譜にはKozo yoshimotoと記載され、それが逆輸入されて国内でも‟こうぞう”と呼ばれるようになってしまった。吉本光蔵使用の剣帯(短剣や長剣を吊る為のベルト)や長剣袋が現存するが、K.Y.ではなくM.Y.のイニシャルが記載されている。

著作

  • Japanisches populäres Lied für Gesang mit Shamisen-Begleitung (1890年)全国書誌番号:41024364
  • 吉本光蔵 著、三戸知章・編曲 編『君が代行進曲』共同音楽出版社、1959年。全国書誌番号:59004107 
  • 『君が代行進曲』帝国海軍軍楽隊、キングレコード、1938年6月。NDLJP:2914029 

参考文献

脚注

注釈

  1. ^ (塚原 & 平高 2012)によれば「軍楽通学生申付候御届」(『公文類纂』前編第11巻、海軍省、明治11年)に島根県士族と記載。また記載住所からの推定で鳥取藩士の家系と考えられる。

出典

  1. ^ a b 塚原 & 平高 2012, p. 44.
  2. ^ 歴史統計:日本銀行金融研究所
  3. ^ 塚原 & 平高 2012, p. 47.
  4. ^ 塚原 & 平高 2012, p. 46.
  5. ^ 塚原 & 平高 2012, p. 45.
  6. ^ 大蔵省印刷局 1895.
  7. ^ 伊藤めぐみ (2010). “日本におけるクラリネットの歴史”. 東京藝術大学修士論文  (東京藝術大学大学院) (2010年度): 42. 
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