南西部軍
南西部軍(Army of the Southwest)は南北戦争中の北軍の軍で、ミシシッピ川流域戦線で活動した。また、南西ミズーリ軍(Army of Southwest Missouri)の名前でも知られる[1]。 歴史南西部軍1861年12月25日、南西ミズーリ小軍管区(District of Southwest Missouri)の野戦軍として、ミズーリ軍管区(Department of the Missouri)の部隊を抽出することにより南西部軍は設立された。初代の軍司令官はサミュエル・カーティス(Samuel Ryan Curtis)准将であったが、その後短期間に数人の司令官が就任した。 カーティスが軍司令官に就任した時点で南西部軍は3個師団から構成されており、師団長はフランツ・シーゲル准将、アレクサンダー・アスボス(Alexander Asboth)准将およびジェファーソン・デービス(Jefferson C. Davis)大佐であった。シーゲルは自身が軍を率いるべきと感じており、辞任をほのめかした。軍の兵士の半数以上がドイツからの移民であり、ドイツ人であるシーゲルの彼らに対する影響は大きかった。シーゲルをなだめる意味もあり、カーティスはシーゲルを軍の副司令官に任命すると共に、ほとんどがドイツ人で構成されていた第1師団と第2師団の総指揮を任せた。シーゲルに代わる第1師団長は、やはりドイツからの移民であるピーター・オスターハウス(Peter Joseph Osterhaus)大佐が任命された。アスボス(ハンガリー移民)は引き続き第2師団長を務めた。デービスの第3師団のみが、アメリカ生まれの(ほとんどが中西部の出身)兵士で構成されていた。カーティスは民族バランスをとるために、ユージン・カー(Eugene Asa Carr)大佐を師団長とする第4師団を編成した[2]。 カーティスは南西部軍を率いてピーリッジの戦い(1862年3月7日-3月8日)に参戦、戦力に上回る南軍に勝利した。アーカンソー州ヘレナを占領後、南西部軍は一旦活動を停止し、各師団は他の軍へ配属されて戦争の残りの期間を戦った。 第1師団はフレデリック・スティール(Frederick Steele)に引き継がれ、短期間東アーカンソー小軍管区(District of Eastern Arkansas)に属した後、テネシー軍に配属(第13軍団第11師団)された。アスボスの第2師団とデービスの第3師団は、コリンスの包囲戦の間ミシシッピ軍に加わった。 南西ミズーリ軍1862年12月3日、第4師団の大部分はジョン・デビッドソン(John Davidson)少将の南西ミズーリ軍として再編された。南西ミズーリ軍は2個師団編成で、ウィリアム・ベントン(William Plummer Benton)大佐とチェスター・ハーディング大佐(後にユージン・カーに交代)が師団長を務めた。しかし、独立した軍としての存在期間は短く、ビックスバーグ方面作戦に備えるためにテネシー軍に加えられ、カーが指揮する第14軍団の一部となった。 歴代司令官
主な戦闘
ピーリッジの戦いの戦闘序列→詳細は「en:Pea Ridge Union order of battle」を参照
南西部軍司令官:サミュエル・カーティス准将
脚注参考資料
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