南総南総(なんそう)は、本来は上総国の異称であり[1][2][3]、下総国を「北総」と称するのに対応する語である[1][2][4]。ただし、現代の用法では、千葉県中部及び南部地域のさまざまな領域を指す地名として用いられており、令制国の上総国の範囲と一致するわけではない。 解説上総国の異称「総州」日本では令制国を中国風に「州」と呼称することがあり、国名の一字をとった「○州」が別名として用いられた[5]。甲斐国を「甲州」[6]、信濃国を「信州」[7]と称する謂いである(唐名参照)。 令制国の上総国・下総国については、ともに「総州」となる[8](「総州」は両国の総称とされることもある[9][10]。併称として「両総」という語が用いられることもある[11])。 なお、安房国については「房州」と呼ばれる[12][8]。上総・下総(総州)および安房(房州)3か国の併称として「房総」がある[13]。 上総国を指す「南総」ともに「総州」と呼ばれる上総国・下総国を区別する際に「南総」「北総」の語が用いられることがある[14]。たとえば、上総国武射郡に出生して下総国佐原の伊能家を継いだ伊能忠敬の墓碑(原文は漢文)には「君の諱は忠敬、字は子斉、伊能氏……〔中略〕……北総香取郡佐原村の人なり。本姓は神保氏、南総武射郡小堤村、神保貞恒の第三子にして、出でて伊能氏を冒せり」とある[15]。 江戸時代中期の儒者・荻生徂徠は、父が失脚して江戸を追放されたために上総国長柄郡本納村(現在の千葉県茂原市)に移り住み、ここで14年間を過ごした。のちに徂徠は、青少年期に学んだ「南総の力」がその後の自らの学問の発展をもたらしたと述べた[16]。 上総国と安房国を扱った文献の中には、「南総」をあくまでも上総国のみを指す語として用いるものがある。たとえば江戸時代後期に上総国長須賀(現在の木更津市)出身の国学者・鳥海酔車が上総国・安房国の地誌を著したが、上総一国を扱った地誌を『南総郡郷考』[17]、安房一国を扱った地誌を『房陽郡郷考』と題した[18]。明治初年に房総地域の地方長官を務めた柴原和は[注釈 1]、木更津県について「安房南総を併せて一円管治するに至る」と記し、その管轄地域の状況を記する当たって「安房及南総」と併記しており[19]、安房と南総(=上総)を明確に区別している。 南総里見八犬伝と安房国江戸時代後期、曲亭馬琴による伝奇小説『南総里見八犬伝』が人気を博した。この作品は室町時代後期(戦国時代初期)、安房国に本拠を置いた里見氏の縁に連なる「犬士」たちの物語である。里見氏に「南総」を冠することに読者から疑義を呈された馬琴は、安房国は上総国から分立した国であることを説明した上、小さな安房国から勃興した里見氏が房総半島から三浦半島の一部にまでに広がる「南方藩屏第一の大諸侯」となったことを表現するものとして「安房」でも「房総」でもなく「南総」の語を選択したと説明しており、この作品での「南総」は「ただ上総にのみ限るにあらず」としている[20]。 里見氏(安房里見氏、房総里見氏[21])は実在の戦国大名であり、『南総里見八犬伝』はこの里見氏に関する軍記物等を参照しながら創作されたフィクションであるが、この作品を通して「里見氏」と「南総」の語は密接に結びつくこととなり(これにより里見氏は「南総里見氏」とも呼ばれる[22])、また「南総」が里見氏が本拠とした館山市・南房総市周辺をはじめとする安房地域(令制国の安房国、近代の安房郡域)と結びつけて用いられるようにもなった。千葉市と館山市・白浜(南房総市)を結ぶ高速バスは「南総里見号」と呼ばれ、館山市で開催される観光イベントは「南総里見まつり」を称している[23][24]。 南総海岸近代、交通機関の発展とともに、房総半島は保養地や海水浴場として知られていくことになる[25]。「南総」の海岸は総じて「南総海岸」と呼ばれた。内房(東京湾側)の八幡浦の海水浴場が「南総海岸」と称される例もあるが[26]、明治後期に房総鉄道(現在の外房線)の開通によってアクセスが容易になった夷隅郡・長生郡などの外房(太平洋側)が「南総(海岸)」の語と結びつけて呼称されることとなる。たとえば「南総海岸避暑寒案内双六」(1909年、図按者・大岩京輔、発行人・海寳堂蔵野四郎)は、両国駅を出発し、一宮・太東岬・長者町・大原・勝浦・小湊といった地域をめぐるものである[27](小湊は安房国の領域)。旅館等もその所在地を「南総大原」[28]、「南総御宿」[29]、「南総興津」[30]などと称して広告した。絵葉書も外房の観光地に「南総」と冠したキャプションを付している[31]。 市原市の南総地区1954年の昭和の大合併の際、市原郡(上総国の領域)にあった牛久町・鶴舞町など2町3村が合併して南総町が発足した。南総町自体は1967年に市原市に編入されて消滅するが、旧南総町域を管轄地域とする市原市役所南総支所が置かれ、市原市の南総地区と呼ばれる。1971年、南総地区にあった複数の中学校が統合された際、市原市立南総中学校と命名された。 たとえば、千葉県道148号南総一宮線は旧南総町域(市原市平蔵)と長生郡一宮町を結ぶ千葉県道であり、南総運動広場(市原市奉免)[32]は南総地区の地域スポーツ施設であり、「南総地区社会福祉協議会」は市原市南総地区の社会福祉協議会である[33]。 広域地名「南総」のさまざまな範囲各組織によって「南総」は千葉県中部・南部のさまざまな範囲を指す広域地名として用いられており、以下のような使用例がある。
「南総」を冠する施設・企業など
南房総「南総」を安房国を含んだ千葉県南部を意味する語とした場合、これと類似する語として、房総半島南部を意味する「南房総」がある。平成の大合併の際にその一角(安房国の領域内)に南房総市が成立した。 国土交通省は半島振興計画(地方振興計画の一種)の対象として「南房総地域」を規定している。この規定によれば南房総地域は富津岬と太東岬を結ぶ線以南の地域で、6市3町(富津市、鋸南町、南房総市、館山市、鴨川市、大多喜町、勝浦市、御宿町、いすみ市)を含む[40]。 備考
脚注注釈出典
参考文献
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