千葉作龍千葉 作龍(ちば さくりゅう、1947年1月25日 - )は青森ねぶたのねぶた制作者(ねぶた師)。第5代ねぶた名人。本名は千葉 伸二(ちば しんじ)。 来歴千葉作太郎[1]の息子として生まれる。10歳のころから作太郎のねぶた制作を手伝い始め、1959年に12歳で作太郎の助手となる[2]。青森県立青森高等学校を卒業してからも、看板屋とねぶた師を目指していたが、1966年作太郎が脳を患って倒れ、57歳で亡くなる。翌年20歳で手探りの状態ながらも大型ねぶたを作り上げ、一本立ちする。伸二は北川啓三等当時活躍していたねぶた師からも技術を吸収していった。 1973年に26歳で初の最高賞・田村麿賞を受賞、さらに1975年、76年と2年連続で同賞を受賞し、「若手のホープ」として注目を浴びた[3]。中でも佐藤伝蔵が一目置き、「千葉、おめ新幹線で来だな、だばわはジェット機で行ぐだ。」と明らかに伸二の活躍を意識した発言を残している。1977年には制作者名を作龍と改め、独立して営んでいた看板業を廃業しねぶた一本の道を選ぶ。だがその直後から心臓神経症を患い、ねぶた制作においても数年間スランプ状態に陥る。1982年に制作賞を受賞したのをきっかけに、スランプから脱し復活を遂げ、翌年から3年連続で知事賞を受賞する快進撃をみせた。[4]1986年に佐藤伝蔵の連続受賞を止める田村麿賞を獲得[5]、その後も数多くの賞を受賞している。 佐藤伝蔵・鹿内一生亡き後は、ねぶた師のリーダー的役割を担い、他のねぶた師のサポートや後進の育成を積極的に行っている。平成9年に通算8度目のねぶた大賞(旧 田村麿賞)を受賞、佐藤伝蔵の持つ最多記録に並び、北村隆(後の6代名人)により抜かれるまで首位タイ記録保持者となる。 2012年に第5代ねぶた名人に認定される[6]。そして前年に続くねぶた大賞を獲得し名人位に花を添えた[7]。2014年時点で田村麿賞・ねぶた大賞受賞回数は11回であり、北村隆の12回に次ぐ史上2位である。 2022年5月12日、現役引退を表明[8]。 作風「奇をてらわない」ねぶた作りを心がける。書き割りはかすれのない、太い潤筆である。 ねぶたの題材において、それまでなかった新しいテーマを開拓してきたことが挙げられる。スランプを脱出して以来、密教の世界や陰陽五行説、風水、古代の蝦夷、東北の英雄、さらにはアイヌなどを制作し、1995年には前年の三内丸山遺跡の発掘から、「縄文」をテーマに取り上げ大きな話題となった。ねぶたは最高賞のねぶた大賞を受賞し、その後シリーズで制作された。 制作ねぶた1967年から2021年まで、156台のねぶたを制作した。
各賞受賞回数計
制作団体一覧
出典
受賞作品※田村麿賞・ねぶた大賞は通算
ねぶた遠征国内遠征
海外遠征
出典
県外ねぶた柏ねぶた1994年より、千葉県柏市で毎年7月に開催される柏まつりで「柏ねぶた」が行われており、柏ねぶた専用のねぶた制作にも携わっている[10]。なお、柏市は旧青森県柏村(現:つがる市)と姉妹都市関係にあるため、柏まつりにおいてねぶたが行われている。しかし、新型コロナウイルスの影響による柏まつりの中止が長期化したことで管理費や修繕費が高騰したこと、また千葉自身が2022年の引退で新作制作ができなくなったこと等から、2023年を最後に終了した[11]。
佐倉ねぶた2017年より千葉県佐倉市で毎年8月に開催される臼井ふるさとにぎわい祭で「佐倉ねぶた」が行われており、佐倉ねぶた専用のねぶた制作にも携わっている。
寒川神社 新春ねぶた2007年から2013年まで神奈川県寒川町の寒川神社の神門にお正月に展示される専用のねぶた制作に携わっていた。
その他
著書『名人が語る・ねぶたに賭けた半世紀』 企画集団ぷりずむ(草雪舎) 2014/7/1 ISBN 978-4990391317 弟子
注釈
|