北海道庁爆破事件
北海道庁爆破事件(ほっかいどうちょうばくはじけん)とは、1976年(昭和51年)に北海道庁舎に仕掛けられた爆弾が爆発し、2名の死者を出した事件。 事件の概要1976年(昭和51年)3月2日午前9時2分頃、札幌市中央区の北海道庁本庁舎1階ロビー西側エレベーター付近で爆発が起こった。ロビーのガラスがことごとく割れ、天井が抜け落ちるほど爆発の規模は大きく、出勤途中の職員2名が殉職、80名余りが重軽傷を負った。その後、爆発したのは時限式消火器爆弾と判明。職員の出勤ラッシュ時間帯を狙った犯行であったと目された。事件後、北海道新聞社に東アジア反日武装戦線を名乗る男から「大通りコインロッカーに声明文がある」と電話があり、北海道警察は地下鉄大通駅の指定された場所でテープライターを使って片仮名で打たれた犯行声明文を発見した[1]。 犯行声明の内容は以下のようなものであった[1]。
これを受けて「反日闘争」を進めている人物を中心に捜査が進められ、同年9月10日、容疑者大森勝久が逮捕された。その後の家宅捜索で「反日戦線」との交友関係を示す証拠や自室内にあった工具類が発見されている。 この事件は直接証拠が見つからず、大森は黙秘を貫き、裁判では無罪を主張した。ただし、大森は犯人の残した声明文に含まれる政治思想(アイヌ革命論など)については支持するという特異な状況であった。 1983年(昭和58年)3月、第一審の札幌地裁は、事件当日の目撃証言や押収品などといった状況証拠から死刑判決を言い渡した。その後、札幌高裁への控訴、最高裁への上告はいずれも棄却され死刑判決が確定した。アムネスティ・インターナショナル日本から「冤罪の可能性が最も高い7名の死刑囚」の1人に指定されている。 近況
大森の思想は、極左から転向し、反共主義となっている。そのため日本の核武装を主張したり、ロシアや中華人民共和国を「全体主義国家」であるとして、第二次冷戦を開始すべしと主張している。また外部との通信が制限される死刑囚の立場でありながら、外部協力者によって論文[3]を雑誌に掲載しているほか、ウェブサイト(新・大森勝久評論集)を運営している。 脚注出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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