内藤信美
内藤 信美(ないとう のぶとみ)は、江戸時代後期の越後国村上藩の第9代(最後)の藩主。官位は従五位下・豊前守。のち正三位。 略歴和泉国岸和田藩主・岡部長寛の長男として誕生。幼名は小三郎。初名は岡部 長美(おかべ ながとみ)。 慶応4年(1868年)7月11日に先代藩主・内藤信民が自害すると、村上藩は大混乱となり、8月11日には村上城も新政府軍によって落城した。それでも信民の遺志を継いだ家老の鳥居三十郎が抗戦したが、鳥居も9月末には降伏した。その後、7代藩主であった内藤信思は長美を養嗣子として「内藤信美」と名乗らせ、明治2年(1869年)2月3日に信民の跡を継がせた。 明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により知藩事となる。藩内で版籍奉還への反発が強く、知藩事就任が遅れた。同年6月28日、従五位下・豊前守に叙任する。同年11月9日、戊辰戦争の影響が収まらず、藩内の対立は続き、信思を政務の補佐に迎える。明治3年(1870年)6月9日、藩内の対立により、政府に進退伺を提出する。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により罷免されて、東京に移った。明治12年(1879年)10月、隠居して長女と結婚した婿養子の信任に家督を譲った。その後、内藤家を去って岡部家に戻ったため、信美の子孫は岡部姓に戻ったという。 大正14年(1925年)正月20日、69歳で死去した。墓所は東京都渋谷区広尾の東北寺。 系譜父母 正室、継室
子女 養子 脚注
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