乙骨耐軒乙骨 耐軒(おつこつ たいけん、1806年(文化3年) - 1859年8月14日(安政6年7月16日))は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。諱は寛または完(かん)。字は栗甫。通称は彦四郎。別号に碧僊、乙事山人。長男は乙骨太郎乙。 生涯御家人の鳥羽半七の子として江戸に生まれる。古賀侗庵に師事し、昌平黌に学び、文政12年(1829年)8月16日、助教となる。天保8年(1837年)西の丸御徒の乙骨半右衛門安知の娘婿となり、同10年(1839年)6月20日に跡目を相続。同14年(1843年)友野霞舟とともに徽典館初代学頭を務める。友野霞舟は耐軒より二十歳以上の年長ながら、共に忘年の交わりを結んだという[1]。安政2年(1855年)江戸に戻り海防掛目付に転ずるが、安政の大獄で天守番に左遷された。享年54。墓所は小石川の寂円寺。 著作に「遊御岳記」「読瀛奎律髄刊誤条記」などがある。山梨県立文学館に「乙骨耐軒文書」が所蔵されている。 参考文献脚注 |