久米精一
久米 精一(くめ せいいち、1897年(明治30年)12月18日[1][2] - 1949年(昭和24年)11月16日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 経歴香川県出身[1][2][3]。丸亀中学校(現香川県立丸亀高等学校)を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校(31期)を卒業[1][2][4]。同年12月、砲兵少尉に任官し山砲兵第11連隊付となる[1][4]。1931年(昭和6年)11月、陸軍大学校(43期)を卒業し山砲兵第11連隊中隊長となる[1][2][3]。 陸軍省軍務局付勤務、軍務局課員(防備課)、陸軍省兵務局課員、航空兵団参謀を務め、1938年(昭和13年)3月、兵科を航空兵に転科し航空兵中佐となる[1]。1939年(昭和14年)9月、第3飛行集団参謀に発令され日中戦争に出征[1][2][3]。1940年(昭和15年)3月、飛行第16戦隊長に転じ、同年8月、陸軍大佐に進んだ[1][3]。陸軍挺進練習部長を経て、1941年(昭和16年)12月、第1挺進団長となり太平洋戦争に出征[1][3]。パレンバン空挺作戦を指揮した[2]。1942年(昭和17年)4月、陸軍挺進練習部長に再任され、1944年(昭和19年)8月、陸軍少将に昇進し航空輸送部長に就任[1][2][3]。1945年(昭和20年)4月、機動打撃師団の第209師団長(加越部隊)となり、本土決戦に備え金沢付近で展開し終戦を迎えた[1][2][3]。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。 脚注参考文献
関連文献
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