ロックビル (コネチカット州)ロックビル(英: Rockville)は、アメリカ合衆国コネチカット州トランド郡中央部に位置する国勢調査指定地域(CDP)である。トランド郡では人口最大の町であるバーノン町(人口は2010年で29,199人)の中にあるビレッジでもある。2010年の国勢調査では人口7,474 人だった[1]。1889年に市として法人化されて以来トランド郡の郡庁所在地だったが、1960年にトランド郡政府が廃止されて郡庁所在地の位置づけがなくなり、さらに1965年にバーノンの町に統合されてそのビレッジとなった。 地理アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、CDPの全面積は1.8平方マイル (4.7 km2)であり、このうち陸地1.7平方マイル (4.4 km2)、水域は0.04平方マイル (0.10 km2)で水域率は1.70%である。 歴史工場が出来る以前1726年、サミュエル・グラントがボルトンにあった農園を、ボルトン北部の500エーカー (2.0 km2) の土地と交換した。その中には今日ロックビルと呼ばれる地域が含まれており、その後の約1世紀も名前の無いビレッジのままだった。この地域の特徴ある地形はシェニップシット湖であり、住人は現在も愛着をこめて「ザ・スニップ」と呼んでいるものである。ザ・スニップからホッカナム川が流れ、1.5マイル (2.4 km) の間に254フィート (77.4 m) を滝と共に下った。この川を農夫達は製粉所、製材所、搾油所に使い、1740年には蒸留所も始まった。 ロックミル1821年、フランシス・マクリーン大佐が現在ロックビルとなっている所に、ジョージ・ケロッグ、アリン・ケロッグ、ラルフ・タルカットとの共同事業で最初の繊維工場を建てた。そこは「ザ・ロック」と呼ばれる地点に隣接し、投資額は16,000ドルだった。マクリーンは以前にタルコットビルのウォーバートン・ミルで他の者と共同事業を行ったこともあった。「ザ・ロック」とは固い岩でできた自然のダムであり、ホッカナム川に高い滝を作っていた。現在ロックビルの中心となっている所で、ホッカナム川を堰き止め、「ロックミル」と呼ばれる水力駆動の工場を建設した。それはマクリーン毛糸工場と呼ばれた可能性もある。1823年までにその工場はフル操業になっていた。この新しい工場は幅80フィート (24 m)、奥行き30フィート (9 m) であり、その製品は青色と青の混じったサテンのような繊維だった。1826年、機械式織機が導入された。 この工場が地域に人を呼び、1836年までに人口が440人となった。61の家族に10歳未満の子供が89人いた。 ロックビルの名前郵便はバーノンセンターから駅馬車で1日1回配達された。そこが町の郵便局であり、投票所だった。1837年、古い記録に拠れば、「素人っぽい知らせがロックミルに配達され、村の講義室で大衆集会を開催し、町に最も適した名前を決めると宣言していた」内容だった。独自の郵便局を持つためには、恒久的な地名が必要だった。
工場労働者の寄宿舎を運営していたサイモン・チャップマンが、周辺地域で共有されていた表現が「ロックに行っている」だったので、「ロックビル」という名前を提案した。しかし、ロックビルが独自の郵便局を作ったのは1842年になってからだった。 ロックビル歴史地区
ロックビルの大半の地域は「ロックビル歴史地区」の一部として指定されている。この地区はスニップシック通り、デイビス・アベニュー、ウェスト通り、サウス通りに概略囲まれ、1984年にアメリカ合衆国国家歴史登録財に指定された。この地区の広さは550エーカー (2.2 km2)あり、842の建物と別の構造物1つがある。建物はギリシャ復古調、ヴィクトリア様式後期、古典様式復古調で建設されている[2]。 建築的にまたは歴史的に興味ある建物は以下の通りである。 中心街ミル地域
タルコット公園地区エルム通り、パーク通り、およびプロスペクト通りの1ブロックがタルコット公園という小さな町の公園を囲んでいる。家屋はヴィクトリア様式の様々なスタイルであり、19世紀初期のギリシャ復古調からゴシック復古調とイタリア様式、1880年代と1890年代のヴィクトリア様式折衷主義まである。工場所有者は通常自分たちの家を中心街に建てた。
中心街とセントラルパーク残っている建物はセントラルパーク周辺に集まり、毛糸工業によってもたらされた富の名残があり、19世紀に州内でも指導的都市であろうとした町の願望を表している。 中心街東
中心街西
ビレッジ通り
西メインストリート
その他の地域
人口動態以下は2010年の国勢調査による人口統計データである[3]。
著名な出身者
脚注
外部リンク
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