ロイ・エルドリッジ(Roy Eldridge、1911年1月30日 - 1989年2月26日)は、アメリカのジャズ・トランペット奏者。愛称「リトル・ジャズ」。スウィング・ジャズ時代に最も影響力を持ったミュージシャンかつ、ビバップの先駆者とされる。
略歴
ペンシルベニア州ピッツバーグ生まれ。父親は大工、母親はピアニストであった[1]。5歳でピアノを始め、早々にちゃんとしたブルース・リックを弾いたという[2]。このころヴァイオリン、アルトサックス、クラリネットで音楽の才能を示していた3歳年上の兄・ジョー(英語版)を目標としていた[3]。6歳になるとドラムスのレッスンを受け、地元の教会バンドで演奏するようになった[4]。このときたまたまビューグルを吹いたエルドリッジに、兄がトランペットを始めるよう勧めたが、乗り気ではなかった[5]。11歳のときに母が死去し、すぐに父が後妻をもうけると、エルドリッジは自室に何時間もひきこもり、トランペットの猛練習をおこなうようになった[6]。
駆け出しの頃には多くのバンドを、あるときは率い、あるときは参加し、アメリカ中西部をくまなく演奏してまわるようになった[7]。9年生で高校を退学させられ、家出して16歳で旅芸人の一座に参加するも、一座はすぐに解散し、オハイオ州ヤングスタウンに取り残された[8]。そこで「グレーター・シーズリー・カーニバル」なる一座に拾われたが、メリーランド州カンバーランドで巡業中に、黒人である彼は人種差別に直面し、ピッツバーグに帰った[9]。地元ですぐに「トラベリング・ロック・ダイナ・ショー」[10]に参加し、たまたま当時のエルドリッジの演奏をカウント・ベイシーが目撃している。ベイシーは後年「僕の人生でこれまで聴いた中で最も偉大なトランペットだったよ」と語っている[11]。ツアー・バンドでの演奏は17歳までつづけた[12]。
20歳の時、自身のバンド「ロイ・エリオットと彼のパレス・ロワイヤル・オーケストラ」を結成[13]。マネージャーによる命名であるといい、エルドリッジ本人は「このほうが格式が高いと思ったんだろう」と述懐している[14]。結局バンドは脱退し、フレッチャー・ヘンダーソンの弟、ホレス・ヘンダーソンの楽団「フレッチャー・ヘンダーソン・ストンパーズ〔ママ〕」のオーディションを受け、参加[15]。その後デトロイトで多くのバンドと演奏してから、スピード・ウェブ(英語版)のバンドとともに、中西部のツアーに出る[16]。その後、メンバーはエルドリッジをリーダーとしたバンドを結成した[17]が、短命に終わった。エルドリッジはミルウォーキーに移り、その後生涯の親友となるジャボ・スミス(英語版)と知り合う[18]。
1930年冬にニューヨークに移ったのち、セシル・スコット(英語版)、エルマー・スノーデン(英語版)、チャーリー・ジョンソン(英語版)、テディ・ヒル(英語版)らのバンドを渡り歩く[19]。このころ、デューク・エリントン楽団のオットー・ハーディック(英語版)が、エルドリッジに、演奏のすごさと身長の低さをかけた「リトル・ジャズ」のあだ名を授けた[20]。また、初めて録音とラジオ放送を自分のバンド名義で行った。1935年、テディ・ヒルとの録音においてはじめてソロ演奏を披露し、すぐに人気が出た[19]。有名なナイトクラブ「Famous Door」で自分のバンドを率いるようになった[19]ほか、1935年にはビリー・ホリデイと『What a Little Moonlight Can Do』『Miss Brown to You』などをディキシーランド・スタイルで録音している[21]。同年、フレッチャーの楽団に参加した際は、ヴォーカルも担当している[19]。同楽団では、1936年に辞めるまで、『Christopher Columbus』『Blue Lou』などでソロをとった[22]。
こうして彼のリズミックなスウィングは、この時代のジャズのトレードマークとなり、「1930年代半ば以降、ルイ・アームストロングの後継者はエルドリッジだ」と評されるようになる[23]。
1936年秋にシカゴに引っ越した。同年、兄ジョーとともに、サックスと編曲を担当した7人組バンドを結成。「アフター・ユーヴ・ゴーン」「Wabash Stomp」などで長いソロをとった録音を残した[19]。音楽業界の人種差別にうんざりした彼は、1938年にいったん音楽活動を停止し、無線工学の勉強をした[13]。1939年に復帰し、10人組バンドを結成。ニューヨークのArcadia Ballroomに落ち着いた[19]。
1941年春、ジーン・クルーパ楽団に参加。白人バンドに入った初の黒人音楽家となった[24]。ここでは、新人歌手アニタ・オデイと共演した[25]。ノベルティ・ソング『Let Me Off Uptown』『Knock Me With a Kiss』などをヒットさせる[20]。この時期の最も有名な録音はベニー・カーター編曲によるホーギー・カーマイケルの『ロッキン・チェア』である[26]。1943年夏、クルーパが大麻所持の容疑(のちに冤罪が判明)で投獄されて、バンドは解散する[27]。翌年、アーティ・ショウのバンドに参加。ここでもまた人種問題があり、脱退して自身のビッグバンドを組んだが、経済的に失敗。小編成での活動に戻った[25]。
第二次世界大戦後は、ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(英語版)(JATP)の一員としてツアーを行った。JATPのリーダー、ノーマン・グランツは、「エルドリッジこそがジャズの精神の象徴だ」とし、「彼はステージに現れるとベストを尽くす。どんなコンディションでも。何事にも集中する。彼はわざと尻餅をつくときも、安全にじゃなく思いっきりやるんだ。ジャズってそういうものじゃないかなあ」と振り返っている[28]。1950年、ベニー・グッドマンとのツアーのためパリに滞在。1951年にニューヨークに戻り、「バードランド」でバンドを持った。1952年から1960年代初期にコールマン・ホーキンス、エラ・フィッツジェラルド、アール・ハインズらと共演するかたわら、ノーマン・グランツとの録音もおこなった[25]。1960年には、アビー・リンカーン、エリック・ドルフィー、ケニー・ドーハムらとともに、チャールズ・ミンガスとマックス・ローチが率いた「ジャズ・アーティスツ・ギルド」で録音[29]。このセッションはアルバム『ニューポート・レベルズ(英語版)』として残された。1963年から1965年にかけてエラ・フィッツジェラルドと、1966年にはカウント・ベイシーとツアー。その後はフリーの立場で、フェスティバルなどで演奏した[25]。1969年から数年間、マンハッタン西54丁目の「ジミー・ライアンズ・ジャズ・クラブ」でハウスバンドを持った。[20]
1970年に脳卒中で後遺症を負ったものの復帰を果たし、ヴォーカル、ドラムス、ピアノをこなした[30]。作家のMichael Zirpoloは1970年代末に「ライアンズ」でロイを見て、「まだ高音をはじけさせられるんだと思ってびっくりしたよ。彼の健康が心配だった。こめかみの静脈が浮き出ていたからね」と回想している[31]。1971年、『ダウン・ビート』誌の「ジャズの殿堂」入り。1980年に心臓発作を起こして以降は、一切の活動ができなくなった[30]。
1989年、ニューヨークのヴァリー・ストリームのフランクリン総合病院で死去。78歳没。妻・ヴィオラが亡くなった3週間後のことだった[20]。
プレイスタイル・評価
彼が最初に影響を受けたのはレックス・スチュワート(英語版)であった[32]。サックス奏者のベニー・カーターやコールマン・ホーキンスから影響を受け、フレッチャー・ヘンダーソン楽団「ザ・スタンピード」(1926年)におけるホーキンスのソロをコピーすることで自身のスタイルを作った[33]。また、レッド・ニコルズ(英語版)からの影響も公言している[34]。
本人によると、初期にはアームストロングからは影響されず、1932年にアームストロングの研究を始めた(アームストロングの本格的な全米ブレイクは1929年)[19]。
代理コードを含む洗練された和声とソロ演奏の名人芸は、ディジー・ガレスピーに強い影響を与えたとされる。
人物・エピソード
ジーン・クルーパがエルドリッジらバンドメンバーととともに、あるレストランで食事をとっていると、その店の支配人がクルーパに「黒人と同じテーブルで食べるな」と告げた。怒ったクルーパは支配人と殴り合った。留置場に数時間留め置かれたクルーパのために、エルドリッジは罰金を支払った[35]。
主なディスコグラフィ
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リーダー作品
その他の参加作品
- カウント・ベイシー
- Count Basie at Newport(ヴァーヴ 1957年)
- Basie Swingin' Voices Singin'(ABCパラマウント 1966年)
- Broadway Basie's...Way(コマンド 1966年)
- Count Basie Jam Session at the Montreux Jazz Festival 1975(パブロ 1975年)
- コールマン・ホーキンス
- Coleman Hawkins and Confrères(ヴァーヴ 1958年)
- Hawkins! Eldridge! Hodges! Alive! At the Village Gate!(ヴァーヴ 1962年)
- Disorder at the Border(スポットライト 1973年) - 1952年録音
- ジョニー・ホッジス
- Blues-a-Plenty(ヴァーヴ 1958年)
- Not So Dukish(ヴァーヴ 1958年)
- Triple Play(RCAビクター 1967年)
- イリノイ・ジャケー(英語版) - Swing's the Thing(クレフ 1956年)
- レスター・ヤング - Laughin' to Keep from Cryin'(ヴァーヴ 1958年)
- ベン・ウェブスター - Ben Webster and Associates(ヴァーヴ 1959年)
- ジーン・クルーパとバディ・リッチ - The Drum Battle(ヴァーヴ 1960年) - 1952年録音
- エラ・フィッツジェラルド - Ella at Juan-Les-Pins(ヴァーヴ 1964年)
- ジョー・ジョーンズ - The Main Man(パブロ 1977年)
- ザ・スリー・サウンズ - Anita O'Day & the Three Sounds(ヴァーヴ 1962年) - 1曲のみ参加
- バディ・テイト(英語版) - Buddy Tate and His Buddies(キアロスクーロ 1973年)
- ポール・ゴンザルヴェス - Mexican Bandit Meets Pittsburgh Pirate(ファンタジー 1973年)
参照
- ^ Chilton, p. 4-5
- ^ Chilton, p. 5
- ^ Chilton, p. 5-6
- ^ Chilton, p. 6
- ^ Chilton, p. 7.
- ^ Chilton, p. 8.
- ^ Eldridge, (David) Roy in Oxford Music Online Gunther Schuller, Oxford Music Online. Retrieved March 26, 2012.
- ^ Chilton, pp. 12–13.
- ^ Chilton, pp. 14–16.
- ^ Chilton, p. 16.
- ^ Basie, qtd. in Chilton, p. 18.
- ^ Chilton, p. 22.
- ^ a b Balliett, p. 151.
- ^ Eldridge, quoted in Chilton, p. 22.
- ^ Chilton, p. 25.
- ^ Chilton, pp. 32–34, 37.
- ^ Chilton, pp. 39–40.
- ^ Chilton, pp. 40–42.
- ^ a b c d e f g Robinson, p. 691.
- ^ a b c d Wilson "Roy Eldridge, 78, Jazz Trumpeter Known for Intense Style, Is Dead", New York Times, February 28, 1989: 7.
- ^ Oliphant, pp. 343–44.
- ^ Oliphant, pp. 51–52.
- ^ Lyttelton, p. 414.
- ^ Oliphant, p. 326.
- ^ a b c d Robinson, p. 692.
- ^ Oliphant, p. 308.
- ^ O'Day, pp. 102–123.
- ^ quoted in Steve Voce Obituary Norman Granz, The Independent, November 26, 2001. Retrieved November 20, 2008.
- ^ referred to in the liner notes of the LP by Nat Hentoff, quoted here [1]
- ^ a b Wilson, "Roy Eldridge's Ambition"
- ^ Zirpolo, p. 54.
- ^ Chilton, p. 10.
- ^ Lyttelton, p. 410.
- ^ Chilton, p. 14.
- ^ "Gene Krupa Fined," Cleveland Gazette January 3, 1942.
資料
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- Lyttelton, Humphrey. The Best of Jazz. Robson Books, 1998. ISBN 1-86105-187-5.
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- "Gene Krupa Fined After Socking Manager for Refusal to Admit Colored Boy Roy Eldridge in Pa. Restaurant." Cleveland Gazette Jan 3, 1942: 2. America's Historical Newspapers. Web. Apr 14, 2012.
- Obituary Norman Granz, The Independent, November 25, 2001. Retrieved November 20, 2008.
- O'Day, Anita and George Eels. High Times, Hard Times. New York: Limelight, 1981. ISBN 0-87910-118-0.
- Oliphant, Dave: The Early Swing Era: 1930–1941. Westport: Greenwood Press, 2002. ISBN 0-313-30535-8.
- Robinson, J. Bradford and Barry Kernfeld. "Eldridge, Roy." The New Grove Dictionary of Jazz, 2nd ed. Ed. Barry Kernfeld. New York: Grove, 2002. ISBN 1-56159-174-2.
- Schuller, Gunther. "Eldridge, (David) Roy ['Little Jazz']." Oxford Music Online. [2]. Retrieved March 26, 2012.
- Wilson, John S. "Roy Eldridge, 78, Jazz Trumpeter Known for Intense Style, Is Dead." New York Times Feb 28, 1989: 7. Newspaper Source.. Retrieved Apr 14, 2012.
- Wilson, John S. "Roy Eldridge's Ambition: 'To Outplay Anybody.'" New York Times June 30, 1981: C5. ProQuest Historical Newspapers. Web. Retrieved Apr 14, 2012.
- Wilson, John S. "Roy Eldridge: Jazz Trumpeter for All Decades." New York Times Oct 17, 1982: H25. ProQuest Historical Newspapers. Web. Apr 14, 2012.
- Zirpolo, Michael P. "Sitting in with Roy Eldridge at Jimmy Ryan's." The IAJRC Journal 42.2 (2009): 54. RILM Abstracts of Music Literature. Web. Apr 14, 2012
外部リンク
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