ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス (紀元前148年の執政官)
ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス(ラテン語: Lucius Calpurnius Piso Caesoninus、生没年不詳)は紀元前2世紀中頃の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前148年にコンスル(執政官)を務めた。 出自ピソ・カエソニヌスはプレブス(平民)であるカルプルニウス氏族の出身である。最も古い氏族のひとつであり、第2代ローマ王ヌマ・ポンピリウスの息子カルプス (Calpus) を始祖としているとされる(ヌマの子孫と称する氏族は他にピナリウス氏族、ポンポニウス氏族、アエミリウス氏族がある)[1]。カピトリヌスのファスティによると、父も祖父もプラエノーメン(第一名、個人名)はガイウスである[2]。父ガイウスは紀元前180年の執政官ガイウス・カルプルニウス・ピソと思われる。但し、ピソ・カエソニヌスが二重コグノーメン(家族名)を持っていることから、カエソニウス氏族からの養子であろう[3]。 経歴ピソ・カエソニヌスが最初に資料に登場するのは紀元前155年のことである。プラエトル(法務官)に就任し、ヒスパニア・キテリオルまたはヒスパニア・ウルテリオルの属州総督として赴任した[4]。アッピアノスはもう一人の属州総督をマニウス・マニリウスとしているが、どちらの属州であったかは示していない[5]。現代の研究者は、カエソニヌスはヒスパニア・ウルテリオル属州総督であったと考えている[6]。この年に、ルシタニア人がヒスパニアに侵攻し、二人の属州総督の連合軍を撃破したことが知られている。ローマ側の戦死者は6000人以上でクァエストル(財務官)も一人戦死しているが、それ以上の詳細は不明である。ピソ・カエソニヌスは直ちにローマに戻り、元老院に報告した。元老院はこれを重視して紀元前153年ヒスパニアに執政官クィントゥス・フルウィウス・ノビリオルを派遣するが、これは紀元前195年以来32年ぶりのことであった[7]。 紀元前148年、カエソニヌスは執政官に就任する。同僚のパトリキ(貴族)執政官はスプリウス・ポストゥミウス・アルビヌス・マグヌスであった[8]。第三次ポエニ戦争の最中であり、くじ引きの結果カエソニヌスがカルタゴに向かうことになった。前年に二人の執政官が首都カルタゴを攻撃して失敗していたため、カエソニヌスはカルタゴの直接攻撃はせず、周辺の都市・地域の占領を戦略目標とした。艦隊の司令官はルキウス・ホスティリウス・マンキヌスであった。カエソニヌスとマンキヌスはまずアスピス(現ケリビア)を陸海から攻撃したが撃退された。続いてカエソニヌスはカルタゴとウティカの間にあるヒッポ・レギウス(現アンナバ)を包囲した。この都市はシュラクサイの僭主アガトクレスが建設したもので、強固に防御されていた。ローマ軍は夏の間ヒッポ・レギウスを包囲したが得るものはなく撤退した[9]ローマ軍の士気は低下し、カルタゴは一旦失われた領土を取り戻した。ローマ市民はこの失態に激怒した。当時のウィッリウス法は執政官の就任年齢を最低43歳と定めていたが、翌年の執政官には38歳のプブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌスが選出される[10]。 これ以降、カエソニヌスに関する記録はない[3]。 子孫紀元前112年の執政官ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌスは息子と思われる[3]。 脚注参考資料古代の資料研究書
関連項目
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