ルイ12世 (フランス王)
ルイ12世(フランス語: Louis XII, 1462年6月27日 - 1515年1月1日[1])は、ヴァロワ朝第8代のフランス王(在位:1498年 - 1515年)。シャルル6世の弟ルイ・ドルレアンの孫[2]。 生涯シャルル5世の孫であったオルレアン公シャルルと3番目の妃マリー・ド・クレーヴの息子として、ブロワ城で生まれる。アジャンクールの戦いの後にイングランド王国で25年間もの虜囚生活を過ごした[2]オルレアン公シャルルが67歳にして得た唯一の男子であった。1465年、ルイが2歳の時に父シャルルは薨去し、ルイは幼くしてオルレアン公位を継いだ。 1476年、ルイ11世の娘ジャンヌと王命により結婚した[2]。後にアンヌ・ド・ボージューの摂政政府に対する反乱(公益同盟戦争)に加担し、1488年からサン=トーバン=デュ=コルミエで投獄されたが、1491年にシャルル8世により釈放された[2]。1494年に勃発した第一次イタリア戦争では国王軍の後衛を指揮、ジェノヴァを占領した後もイタリア北部に留まってミラノ公国を窺った[2]。このときにはすでにミラノ公国の請求を考えていたという[2]。シャルル8世の息子が夭折したため、ルイ12世は王位継承者になり[2]、1498年に即位した。 ルイ12世はブルターニュに対する野心から、時のローマ教皇アレクサンデル6世に頼み込んでジャンヌとの結婚を無効にしてもらい、シャルル8世の王妃で王太后となっていたブルターニュ女公アンヌと結婚した。2人は2女をもうけ、長女クロードは王位継承者であったアングレーム伯フランソワの、次女ルネはフェラーラ公エルコレ2世の妃となった。 イタリア戦争も再開し、シャルル8世によるナポリ王国への主張以外にも祖父のルイ・ドルレアンがヴァランティーヌ・ヴィスコンティと結婚していたためミラノ公国も主張した[2]。彼はイタリアに親征したが[2]、ナポリ王家の同族であったアラゴン王フェルナンド2世によって間もなくフランス軍は南イタリアから武力で追放される。またフランスのイタリア介入を嫌う教皇は各国に呼びかけて神聖同盟を結成、1513年にフランス軍はミラノから追い出された。 1514年1月に王妃アンヌが薨去すると、ルイ12世はイングランドを対仏同盟から脱落させるためにイングランド王ヘンリー8世の妹メアリー・テューダーと結婚したが、1515年1月1日に崩御した[2]。 男子がいなかったため、王位は従甥のアングレーム伯フランソワが継承した。ルイ12世は野心を持って娘クロードと結婚した娘婿フランソワを最後まで警戒していたという。 評価『ブリタニカ百科事典第11版』では、病弱で知力が平凡であり、気が弱かったため王妃アンヌと寵臣のジョルジュ・ダンボワーズ枢機卿に支配されたと酷評している[2]。 系図
ルイ12世を扱った作品
脚注
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