ラリー・ブッカー
ラリー・ブッカー(Larry Wayne Booker、1952年1月6日 - 2003年11月29日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ルイジアナ州バトンルージュ出身[1]。 ムーンドッグ・スポット(Moondog Spot)およびラリー・レイザム(Larry Latham)のリングネームで知られ、ヒールのタッグマッチ・プレイヤーとしてWWFやミッドサウス地区で活動した[3]。 来歴デビュー後の1970年代後半は、ラリー・レイザムのリングネームでジョージアやアラバマなどのディープサウスを転戦。1979年、テネシー地区にてウェイン・ファリスとブロンド・ボンバーズ(The Blonde Bombers)を結成[2]。メンフィスのCWAでは、ジェリー・ローラー&ビル・ダンディー、リッキー・モートン&ソニー・キングなどのチームとAWA南部タッグ王座を争った[4]。1980年6月にはファリス、1981年6月にはカール・ファジーとのコンビで、ラリー・ラザンの表記で国際プロレスへの来日が予定されていたが、直前に中止になっている[5]。 1981年5月、ムーンドッグ・スポットを名乗りWWFに登場[6]。過去の犯罪歴のためアメリカで活動できなくなったムーンドッグ・キングの後任として、ムーンドッグ・レックスの新パートナーとなってザ・ムーンドッグス(The Moondogs)に加入し[7]、キングが保持していたWWFタッグ王座を継承した[8]。6月8日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて、新日本プロレスの藤波辰巳&谷津嘉章の挑戦も受けている[9]。 その後もレックスとのムーンドッグスでの活動を続け、ジョージア・チャンピオンシップ・レスリングやプエルトリコのWWCなど各地を転戦。1983年4月4日には古巣のCWAにて、スティーブ・カーンとスタン・レーンのファビュラス・ワンズを破りAWA南部タッグ王座を獲得している[4]。1984年より揃ってWWFに復帰し、1987年までジョバーを担当。シングルでは1985年11月7日に開催されたWWF初のPPV『ザ・レスリング・クラシック』に出場、16人参加のワンナイト・トーナメント1回戦でテリー・ファンクからリングアウト勝ちを収めるも、2回戦の準々決勝でジャンクヤード・ドッグに敗退した[10]。 WWF離脱後はレックスとのコンビを解消し、ムーンドッグ・スパイクを新パートナーにムーンドッグスを再編して[11]、1987年10月にはスパイクと共に全日本プロレスに初来日[1]。ザ・グレート・カブキ&マイティ井上やジョン・テンタ&タイガーマスクなどのチームをはじめ、ブルーザー・ブロディと組んでの6人タッグマッチではジャンボ鶴田や輪島大士とも対戦した[12]。シングル戦線でも活動し、メンフィスでは1987年5月から6月にかけてジェフ・ジャレットを相手にCWAヘビー級王座を争い[13]、アラバマでは1988年1月3日にトム・プリチャードからNWAアラバマ・ヘビー級王座を奪取している[14]。 1991年からはCWAの後継団体USWAを主戦場とし、スパイク、クージョ、スプラット、2代目レックス(ネイサン・ランドルフ)、ローバー(ポール・マックナイト)ら歴代のムーンドッグと組み、1996年にかけてUSWA世界タッグ王座を再三獲得[15]。ムーンドッグスのボス的存在となるが、USWAが活動を停止した1997年、自身もセミリタイアした。 しばらくリングから離れた後、2003年3月19日にジム・ドゥガンとのタッグチームでTNAのPPVに登場[16]。以後、新人のムーンドッグ・パピー・ラブ(マイク・フラワーズ)と新生ムーンドッグスを結成し、同年5月に旗揚げされたインディー団体メンフィス・レスリングへの参戦を開始した[17]。 2003年11月29日、ミッドサウス・コロシアムで行われたメンフィス・レスリング主催によるジェリー・ローラーのバースデイ・イベント "Jerry Lawler's Birthday Bash" での試合中に心臓発作を起こして衰弱状態となり、病院に搬送されたが死去した[2][18]。51歳没。 得意技
獲得タイトル
脚注
関連項目外部リンク
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