プブリウス・コルネリウス・ルフィヌス
プブリウス・コルネリウス・ルフィヌス(ラテン語: Publius Cornelius Rufinus、生没年不詳)は紀元前4世紀の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前334年と紀元前333年に独裁官(ディクタトル)を務めた。 出自パトリキ(貴族)であるコルネリウス氏族のコルネリウス・ルフィヌス家の出身。ルフィヌス家としては最高官職に達した最初の人物である。ルフィヌス家からはスッラ家が分かれており、ルキウス・コルネリウス・スッラも彼の子孫にあたる[1]。プブリウスの孫にあたるプブリウス・コルネリウス・ルフィヌスは独裁官と執政官を二度務めているが、贅沢が過ぎるとして、監察官(ケンソル)ガイウス・ファブリキウス・ルスキヌスによって元老院から除名されている[2]。 経歴紀元前334年、執政官のスプリウス・ポストゥミウス・アルビヌスとティトゥス・ウェトゥリウス・カルウィヌスがシディキニ族(en)と戦っていたが、シディニキは多数の兵士を組織し、さらにサムニウムが同盟したとの報告が届いたため、元老院はルフィヌスを独裁官に任命した[3]。ルフィヌスは翌紀元前333年も独裁官を続けたが、古代の資料はこの年の執政官を記録していない。このため、この年はカピトリヌスのファスティによると紀元前4世紀後半に4回あったとされる「独裁官の年」の最初の例とされている[4]。しかし、ルフィヌスとそのマギステル・エクィトゥムのマルクス・アントニウスは、その任命が宗教的観点から問題ありとされ、辞任している[5][3]。 脚注参考資料
関連項目
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