フロンドの乱
フロンドの乱(フロンドのらん、フランス語: Fronde, 1648年 - 1653年)は、17世紀フランスで起こった反乱。フランスにおける貴族の反乱としては最後のもので、貴族勢力は打倒され、絶対王政の確立につながった。フロンド(fronde)とは当時流行していた投石器を意味し、パリの民衆がマザラン邸をめがけて投石したことから呼ばれるようになったという。 経過1643年、ルイ13世の死によって、ルイ14世がわずか4歳で即位、大后アンヌ・ドートリッシュが摂政、ジュール・マザランが実質宰相の座に着く。マザランはリシュリューの政策を継承し、貴族層と対抗、三十年戦争継続のための重税を課したため、貴族と民衆のいっそうの反発を買った。当時は売官制によって、民衆のうち富裕層が法服貴族として増加していた。法服貴族はパリ高等法院にも基盤を持ち、結果、民衆と貴族勢力が結合し宮廷と対立する背景となった。また、アンヌ・ドートリッシュがスペイン人、マザランがイタリア人であったことも反乱の一因といわれている。その後、イギリスで起こった清教徒革命も影響を与えた。 1648年8月、マザランが高等法院のメンバーを逮捕したことをきっかけに、当初は民衆と法服貴族が蜂起。反乱軍はパリを包囲し、王宮内の当時10歳のルイ14世の寝室まで侵入。ルイ14世は寝たふりをして難を逃れたとされているが、翌1649年1月にルイ14世とマザランはパリを一時退去、サン=ジェルマン=アン=レーへ避難せざるを得なくなった。ルイ14世の幼い時のこの体験が、後のヴェルサイユ遷都につながったといわれている[1]。 反乱軍はコンティ公アルマンを大将に推したが、コンティ公の兄で王党派のコンデ公ルイ2世の軍がパリを逆包囲して3月に一旦鎮圧するが、衆望を集めたコンデ公がマザランと対立して1650年1月にコンデ公が逮捕されると、憤慨した一族がブルゴーニュ・ノルマンディーなどで挙兵して国王軍が反乱鎮圧に出動、騒ぎが収まらないまま翌1651年2月にコンデ公は釈放、マザランはドイツへ亡命した。 コンデ公はパリで権勢を振るい、反乱軍に加わってからは大貴族も含めた反乱に拡大した。しかし、反乱側は諸階層の利害の対立から内部分裂による自滅の道を歩み、コンデ公は9月にボルドーへ退去、地方に反乱を呼びかけると同時にスペインの援軍とも合流、宮廷もパリからポワチエに移動してパリは反乱軍に制圧された。1652年1月に亡命先からマザランが帰国、続いてテュレンヌ元帥とも合流を果たし国王軍の指揮をテュレンヌに委ねた。 コンデ公は4月にスペイン軍と共にボルドーからパリを目指して北上し、テュレンヌと交戦しながらパリへ入城、7月にパリ郊外へ出てフォーブール・サン・タントワーヌの戦いで国王軍と激突した。戦闘はパリからアンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアンの迎撃で国王軍が怯んだ隙を付いてコンデ公がパリに撤退したため決着は着かなかったが、決定的な戦果を出せず反乱軍の期待に応えられないコンデ公は次第に孤立、8月にマザランが自主的に再度亡命したこともあってパリに国王帰還を望む雰囲気が出来上がっていった。 そして10月にコンデ公がパリから脱出、入れ替わるようにルイ14世らが帰還し、11月にテュレンヌの追撃でコンデ公はスペイン領ネーデルラントへ亡命、1653年2月にマザランがパリへ戻り7月にボルドーが国王軍に鎮圧され反乱は終息した。以後フランスは貴族勢力の打倒により絶対王政へ進むことになる[2]。 フィクションにおけるフロンドの乱ダルタニャン物語では、三銃士のうちアトスとアラミスが反乱側につき、ダルタニャン、ポルトスと敵味方に分かれる。 脚注参考文献関連作品ゲーム
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