ハングル専用文と漢字ハングル混じり文ハングル専用文と漢字ハングル混じり文(ハングルせんようぶんとかんじハングルまじりぶん)では、韓国語を表記する際に、 ハングルのみとするか、漢字(ハンチャ)を混用するかについて述べる。また、これらとしばしば同様に議論させる、日韓併合前にあった漢字至上主義[1]と相対する戦後の韓国語における言語純化運動についても述べる。 概要ハングルを専用する文章や、その主張は、韓国では主に「한글전용(-專用)(ハングル専用)」と呼ばれ、漢字の熟語や外来語を純粋な朝鮮固有語に置き換えようとする言語改革運動(国語醇化、ko:대한민국의 국어순화)ともしばしば合流する。 ハングルは15世紀に発明されたが、文字を独占していた特権階層による反対に妨げられ、きちんと使用されなかった[1]。一方、漢字と混用するものは、現地では「국한문(國漢文)」や「국한문혼용(國漢文混用)」と呼ばれる。日本では、漢字ハングル混じり(交じり)文や漢字ハングル混用文と呼ばれ、朝鮮のハングルを再発見し、既存の日本の「漢字・かな混用文」に着目して、「漢字・ハングル混用文」を日本統治時代に福沢諭吉の弟子であった井上角五郎が提案し、朝鮮人儒学者が創造した古典中国語直訳体の朝鮮語文のことに限定する場合がある。ハングルが固有語を、漢字が漢字語を記す点で、日本語の漢字かな混じり文とも比較される。 日韓併合後、朝鮮総督府は小学校の段階からハングル教育用の教科書を準備して、日本が韓半島に建てた5200校の小学校で朝鮮人児童らがハングルを学習するようにした[1]。 李氏朝鮮時代ハングル開発と漢字至上主義による未普及ハングルは、15世紀の李氏朝鮮第4代国王世宗の代に創製された。李朝中後期には両班の中にハングルを用いた文芸活動にあたる漢字ハングル混じり文で書かれた小説、ハングル専用文で書かれた作品が数作品現れた。しかし、守旧派儒学者による漢字至上主義は、ハングルの公用文書への使用を阻害し、李朝の公文書は漢文で作成されていた。実務文書でもハングルは漢字表記朝鮮語(吏読)を主としていた。そのため、全く普及しなかった[1]。 漢字混用法開発と福沢諭吉の協力19世紀である1882年、壬午事変の事後処理の修信使として日本にやってきた朴泳孝は福澤諭吉と出会い、福澤は「朝鮮の独立と朝鮮人の啓蒙の為には、朝鮮語による新聞の発行が不可欠」と説き、開化派と福沢の弟子の井上角五郎の協力により、『漢城旬報』を経て、朝鮮初のハングル使用の新聞・公文書(官報)である『漢城周報』(1886年創刊)が発行された[2]。 日本統治時代
朝鮮総督府は日韓併合後に小学校の段階からハングル教育用の教科書を作成し、朝鮮半島に5200校の小学校を建築し、朝鮮人児童らがハングルも学習するようにした。朝鮮人がキチンと読み書き出来るように文字を整備した[1]。日本統治時代の学校教育とメディアにより、ハングル(漢字混じり)は飛躍的に普及した。学校教育における教授言語は日本語となったが、日本統治時代の前期から太平洋戦争中期までにかけて朝鮮語も科目の一つとし、漢字とハングルを教えられた。こうして、この時代を中心に近代的概念を示す和製漢語や日本語発音の単語などが朝鮮に数多く導入された[3]。 戦後韓国1948年、大韓民国建国と同時に、ハングル専用法を制定[4]。
しかし、実際には、漢字の知識を持つ人の漢字使用は禁止せず、代わりに新たな漢字教育の実施を厳しく制限した。一世代かけて漢字を使わずハングルのみを使用するハングル世代(ko:한글 세대)を育成する戦略であった。ハングル世代とは、広義では戦後生まれの韓国人全てを指し、若干の漢字教育を受けた可能性はある。狭義のハングル世代は朴正煕が漢字廃止宣言を実行した1970年から1972年の時期に中高生だった世代を指し、彼等は漢字教育を全く受けておらず、自分の名前の漢字さえ知らない場合が少なくない。 ハングル専用主義者の運動が功を奏し、「漢字を使用すると読者が読めなくなる」と漢字使用の存続を主張していた新聞各社も1990年代後半には漢字使用を徐々に中止[6]。漢字存続の立場に立つ朝鮮日報も、日刊紙は事実上のハングル専用になった。ただし、同音異義語の判別や意味をわかりやすくするため、漢字を補助表記として括弧つきで表記することがある。しかし、知識人を対象とした月刊朝鮮では漢字の使用を継続し、少年朝鮮で漢字教室を掲載して次代の漢字復活を後押ししている。 同音の漢語系語彙に対する弁別がハングルのみでは困難であるために問題が生じたという事例もある。これは、主に日本語から借用された大量の漢語は、大部分がそのまま使われ続けているためで、例えば、2022年の法務部長人事聴聞会において、野党議員は「李某」教授を「姨母」教授(ハングルでどちらも「이모」)と間違え、候補者の娘が論文を発表した際、親族関係を利用して便宜を受け取ったと問題を提起した[7]。 そういった日本経由の漢字語に対しての国語醇化政策は、1948年、文教部が『我々の言葉を取り返す (우리말 도로찾기)』という冊子を作成・配布したものが最初である。このとき以来、次のような代替造語ができた。
1951年、科学技術用語制定委員会が設立され語彙の醇化が試みられたが、基本的には日本語排斥運動であり、西洋語の醇化は考慮の対象外であった。 朴正煕政権の1976年以降も、自国語から適当と思われない外来語を排除し、自国固有の言葉に置き換える国語醇化運動が推進され、文化観光部に、政府・各界により構成された「国語純化運動協議会」が設置された[8]。 2005年1月27日、ハングル専用を規定した法律として国語基本法第14条第1項が制定された。朝鮮語の使用を促進、及び国語の発展と保全の基盤を用意することで、韓国国民の創造的な思考力増進をはかり、国民の文化的な生の質を向上させ、以て民族文化発展に貢献することを目的としている。これにともないハングル専用法は廃止。比較としては、漢字の使用に関する規定が変更され、漢字の括弧内使用は大統領令が定める場合に限定されることとなった。また文言も「漢字およびその他の外国文字」となり、漢字のみをあげていた旧法に比べて漢字の特権性は下落した。 国語基本法沿革構成と主な内容全文は、5章27条と附則から構成される。なお、この法律の第14条第1項は、ハングル専用法(1948年 - 2005年)の公文書のハングル専用規定を継承したものである。
北朝鮮朝鮮労働党の機関紙労働新聞においては、1946年はまだ縦書きで漢字とハングル[9]を混用していた。1947年には、縦書きを維持しながら、漢数字に限って使用していた。その後1949年には、横書き移行と同時に漢字使用を全廃した[10]。 しかし、1968年には、金日成の見解で、漢字を使用する必要はないとしながらも、中国・韓国[11]・日本で漢字を使用していることを理由に高等中学校で漢字学習を義務付けた。これらは、金日成一個人の言語に対する考え方や統治方針が強く反映されている。 また、北朝鮮では、韓国より国語醇化が推進されているにもかかわらず、韓国と比べると日本から導入された言葉がそのまま使われている例が多い。 ハングル専用と漢字復活論→「漢字復活論」も参照
漢字復活を主張する人とハングル専用論者との間の論争は六十年戦争といわれている。 日本統治時代に公教育の主要言語であった日本語が漢字を使用していたことが、ハングル専用を促した一因だったという意見がある。一方で漢字ハングル混じり文を残すべきだとの主張を行う学者たちの意見にも配慮し、韓国ではハングル表記の補助という位置づけながら漢字の使用は認められている。ハングルを専用することに対しては、
との理由で漢字復活を主張する声が旧世代を中心に根強いといわれ、また、ハングル専用の弊害として、「漢字を廃止した韓国」で知的荒廃が指摘されている[12]。 表記の上では、/sani/ という音をハングルで書くとき、'사니' /sa+ni/ という二文字で書くのが最も自然だが、「山が」という意味で書くときは、形態素を明示して '산이' /san+i/ という綴りで書く(こういったルールを定めたものがハングル正書法や朝鮮語綴字法統一案である)。 1990年代から多くのメディアで進められている「同じ意味なら固有語彙を使おう」という醇化推進も手伝って、漢字復活の可能性は減っている。 表記例大韓民国憲法の前文をハングル専用文・漢字ハングル混じり文で各表記すると次のとおりである。
同様に大韓民国憲法の前文の和訳をかな専用文・漢字かな混じり文で各表記すると次のとおりである。ハングル専用文では文字数の変化がないのに対し、かな専用文では、文字数の大幅な上昇が見てとれる。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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