ノアイユ賞 (Prix Noailles)はフランス のパリロンシャン競馬場 で4月に行われる競馬の重賞。3歳馬だけが出走できる。2014年の格付けはG3。
概要
長い間、ノアイユ賞はジョッキークラブ賞 (フランスダービー)のための重要なトライアル競走の一つだった。出走資格については2013年までは繁殖可能な牡馬 と牝馬 に限られ、去勢された騸馬 にはなかったが、2014年より騸馬にも出走資格が得られるようになった。
これらの一連の競走は、フランスのサラブレッドの資質向上のために編成されており、出生の条件によって出走の資格が定められていた。また、出走するためには、その馬が生まれる前から出走登録をして登録料を支払っておかなければならなかった(クラシック登録)。詳しくは後述する。
過去の優勝馬には、アジャックス (1904年)、ファリス (1939年)、ヴァルドロワール (1962年)、ルファビュリュー (1964年)、ベーリング (1986年)などのフランスの名競走馬・名種牡馬がいる。日本との関連では、種牡馬として輸入されて成功したものとしてヴィミー (1955年)、ダイアトム (1965年)、サンシー (1972年)などがいる。
プール・デ・プロデュイ
長い間、ノアイユ賞は「プール・デ・プロデュイ (Poules des Produits)」と呼ばれる5競走の1つだった[ 2] 。
プール・デ・プロデュイはフランス馬種改良奨励協会(Société d'Encouragement)が、フランスダービー(ジョッキークラブ賞) の前哨戦として設立したもので、ノアイユ賞、ダリュー賞 、リュパン賞 、オカール賞 、グレフュール賞 がこれに当たる[ 2] 。
リュパン賞を除いては、出走できる馬には父馬や母馬の産地に制限があった。ノアイユ賞は「フランス国外産の父馬による産駒」に限定されていて、ノアイユ賞に出走するためには出走馬が生まれるより前の母馬の胎内にいる間に登録しなければならなかった。ノアイユ賞の賞金はこの登録料で賄われていた[ 2] 。
歴史
沿革
1878年 - ナボブ賞として創設。距離2500メートル。
1896年 - ノアイユ賞に改称。
1902年 - 2400メートルに変更。
1915年 - 第一次世界大戦のため、1920年まで中止。
1921年 - 再開。
1940年 - 第二次世界大戦のため中止。
1941年 - 再開。
1943年 - トランブレー競馬場 (フランス語版 ) で2150メートルで開催。
1944年 - メゾンラフィット競馬場 で2100メートルのダリュー・ノアイユ賞として開催。
1945年 - メゾンラフィット競馬場で2100メートルのダリュー・ノアイユ賞として開催。
1946年 - パリロンシャン競馬場 で2100メートルのダリュー・ノアイユ賞として開催。
1947年 - 2200メートルで再開。
1971年 - グループ制導入。
2005年 - クラシック再編に伴い2100メートルに変更。
2011年 - 2000メートルに変更。
2012年 - 2100メートルに変更。
2014年 - 騸馬の出走資格を開放。
2016年 - シャンティイ競馬場 で代替開催。
2017年 - シャンティイ競馬場 で代替開催。
ナボブ賞
ノアイユ賞は1878年に創設された。創設当時の名称はナボブ賞 (Prix du Nabob)で、これは当時のフランスの名種牡馬ザナボブ(The Nabob)に由来する。創設時の施行距離は2500メートルだった[ 2] 。
ノアイユ賞
1896年に、フランス馬種改良奨励協会(Société d'Encouragement)のメンバーであったアルフレド・ド・ノアイユ伯爵(1823-1895)を記念するために、競走の名称がノアイユ賞 に改められた。ノアイユ伯はパリロンシャン競馬場 の創設に重要な役割を果たした人物である[ 2] 。
第一次世界大戦の影響
1914年の夏に第一次世界大戦 が始まると、ドイツ軍はすぐさまフランスに向かって進軍してきた。ベルギーが2週間で攻め落とされ、ドイツ軍はパリへ砲撃するところまで攻め込んできた。
フランス国内では競馬を開催することは難しくなった。軍部は国内の馬を徴発して軍馬にしようとしたが、これを嫌った大勢の馬主や生産者は、馬をフランス国外に退避させることにした。このため、ノアイユ賞は1915年から中断することになった。この間、戦争の影響が少ないフランス南部や、中立国のスペインで代替競馬が行われた。
1919年の1月にパリ講和会議が開かれ、6月にヴェルサイユ条約が締結された。ノアイユ賞は1920年から再開された[ 2] 。
第二次世界大戦の影響
1939年の秋にドイツがポーランドに進攻し、第二次世界大戦 が始まった。フランス国内では秋競馬が中止になった。開戦当初、ドイツとの間ではにらみ合いが続いただけで実際の戦闘はほとんど行われなかったので、1940年の春には規模を縮小しつつ競馬が開催できる見通しがたった。
しかし5月になるとドイツ軍が一斉にフランス国内へ進攻してきた。一ヶ月ほどでパリも陥落した。前の大戦同様、多くの競走馬がドイツ軍に差し押さえられて連行された。その中には1939年のノアイユ賞の勝ち馬、ファリス もいた。1940年のノアイユ賞は中止となった。
占領軍は、パリ市民の平穏を保つためには、競馬を含めて日常生活を今までどおり開催させるほうがよいと考え、競馬の開催を許可した。結局1940年のクラシック競走は秋にまとめて行われた。
1941年からはパリロンシャン競馬場が使えることになり、1941年、1942年のノアイユ賞は一応例年通り行われた。この時期は飼料も不足して競走馬の頭数は大きく制限されたが、馬券の売り上げは大きく伸びた。1942年の勝ち馬アーコット(Arcot)はこの年無敗の活躍をした。
1943年になると、ドイツ軍はロシアや北アフリカで劣勢になってきた。連合軍はフランス国内へ空爆を行なっていたが、競馬場にはドイツ軍が高射砲を持ち込んでいたため、競馬場も空爆の対象になった。アーコットも出走する春の大レース、サブロン賞 (現在のガネー賞)の当日にパリロンシャン競馬場がアメリカ軍機の爆撃を受け、観客に死者も出た。パリロンシャン競馬場での開催許可はドイツ軍によって取り消された。このため競馬はトランブレー競馬場で代替されるようになった。この年のノアイユ賞は、ダリュー賞と併せて、「ダリュー・ノアイユ賞(Prix Daru-Noailles)」としてトランブレー競馬場 で2150メートルの競走として行われた[ 2] 。
1944年の夏に、連合軍によってパリが解放されたが、パリロンシャン競馬場はアメリカ軍の駐屯地になった。このため1944年と1945年にはメゾンラフィット競馬場 で距離2100メートルの「ダリュー・ノアイユ賞」が行われた。1945年の秋にはパリロンシャン競馬場が使えるようになり、1946年にはパリロンシャン競馬場でダリュー・ノアイユ賞が行われた[ 2] 。
ノアイユ賞が単独で開催されたのは1947年になってからだが、戦前の2400メートルから、2200メートルに短縮して行われることになった。この距離は2005年にクラシック戦線の見直しが行われるまで維持された[ 2] 。
記録
フランスダービーとの関連
ノアイユ賞優勝馬がフランスダービーに勝ったのは、1879年 のズー(Zut)を皮切りに、2001年 のアナバーブルー (Anabaa Blue)まで12頭いる。このほか2着が17頭、3着が6頭出ている[ 2] 。
牝馬の成績
第一次世界大戦前までは牝馬の出走は珍しくないことで、7頭が優勝している。このうち1891年のプリムローズ(Primrose)はディアヌ賞に勝った[ 2] 。
2012年現在でも牝馬の出走は可能だが、出走は稀である。最後に入着したのは1942年に2着になったヴィジランス(Vigilance)である[ 2] 。
歴代勝ち馬
距離はメートル
表中の「*」は日本輸入馬を示す。(多くは種牡馬だが、ジャパンカップ 出走のため一時的に輸入されたものも含む。)
馬名が太字 のものはフランスダービー(ジョッキークラブ賞)優勝馬。
施行年
格
距離
優勝馬
性
備考
1878
2500
Clementine
牝
ナボブ賞創設
1879
2500
Zut
牡
1880
2500
Pacific
牡
1881
2500
Forum
牡
1882
2500
Cimier
牡
1883
2500
Vernet
牡
1884
2500
Pi Ouit
牡
1885
2500
Aïda
牝
1886
2500
Verdière
牝
1887
2500
Gournay
牡
1888
2500
Walter Scott
牡
1889
2500
Achille
牡
1890
2500
Alicante
牝
1891
2500
Primrose
牝
1892
2500
Saint Michel
牡
1893
2500
Chapeau Chinois
牡
1894
2500
Ravioli
牡
1895
2500
Cherbourg
牡
1896
2500
Riposte
牝
ノアイユ賞に改称
1897
2500
Flacon
牡
1898
2500
Le Guide
牡
1899
2500
Maurice
牡
1900
2500
Royal
牡
1901
2500
Tibere
牡
1902
2400
Glacier
牡
1903
2400
Quo Vadis
牡
1904
2400
アジャックス
牡
1905
2400
Jardy
牡
1906
2400
Querido
牡
1907
2400
La Serqueuse
牝
1908
2400
Souvigny
牡
1909
2400
Aveu
牡
1910
2400
Aloes III
牡
1911
2400
Combourg
牡
1912
2400
Imperial
牡
1913
2400
Vulcain
牡
1914
2400
Durbar
牡
1915
中止
1916
中止
1917
中止
1918
中止
1919
中止
1920
2400
Pendennis
牡
1921
2400
Meisonnier
牡
1922
2400
Kibar
牡
1923
2400
Grand Guignol
牡
1924
2400
Irismond
牡
1925
2400
Red Hawk
牡
1926
2400
Biribi
牡
1927
2400
Fenimore Cooper
牡
1928
2400
Le Correge
牡
1929
2400
Dark Times
牡
1930
2400
Chateau Bouscaut
牡
1931
2400
Brasik
牡
1932
2400
Bosphore
牡
1933
2400
Bengal
牡
1934
2400
Zenodore
牡
1935
2400
Bouillon
牡
1936
2400
Fastnet
牡
1937
2400
Actor
牡
1938
2400
Anchois
牡
1939
2400
ファリス
牡
1940
中止
1941
2400
Nepenthe
牡
1942
2400
Arcot
牡
1943
2150
Norseman
牡
トランブレー競馬場で開催
1944
2100
Prince Bio
牡
ダリュー・ノアイユ賞として、メゾンラフィット競馬場で開催
1945
2100
His Eminence
牡
ダリュー・ノアイユ賞として、メゾンラフィット競馬場で開催
1946
2100
Prince Chevalier
牡
ダリュー・ノアイユ賞として、パリロンシャン競馬場で開催
1947
2200
Giafar
牡
1948
2200
Flush Royal
牡
1949
2200
Rancio
牡
1950
2200
Lacaduv
牡
1951
1952
2200
Corindon
牡
1953
2200
Faublas
牡
1954
2200
Le Grand Bi
牡
1955
2200
*ヴィミー
牡
1956
2200
タネルコ
牡
1957
2200
Weeping Willow
牡
1958
2200
Noelor
牡
1959
2200
Cousu d'Or
牡
1960
2200
Le Ventoux
牡
1961
2200
マッチ
牡
1962
2200
Val de Loir
牡
1963
2200
Calchaqui
牡
1964
2200
Le Fabuleux
牡
1965
2200
*ダイアトム
牡
1966
2200
Premier Violon
牡
1967
2200
Roi Dagobert
牡
1968
2200
リュティエ
牡
1969
2200
*グッドリー
牡
1970
2200
Dragoon
牡
1971
G2
2200
Maryambre
牡
1972
G2
2200
*サンシー
牡
1973
G2
2200
Eddystone
牡
1974
G2
2200
D'Arras
牡
1975
G2
2200
Val de l'Orne
牡
1976
G2
2200
Twig Moss
牡
1977
G2
2200
Catus
牡
1978
G2
2200
Gracias
牡
1979
G2
2200
High Sierra
牡
1980
G2
2200
Julius Caesar
牡
1981
G2
2200
Lydian
牡
1982
G2
2200
*ペルセポリスII
牡
1983
G2
2200
Jeu de Paille
牡
1984
G2
2200
Cariellor
牡
1985
G2
2200
Glaros
牡
1986
G2
2200
ベーリング
牡
1987
G2
2200
Sadjiyd
牡
1988
G2
2200
Nerio
牡
1989
G2
2200
*ダンスホール
牡
1990
G2
2200
Intimiste
牡
1991
G2
2200
Pistolet Bleu
牡
1992
G2
2200
Grand Plaisir
牡
1993
G2
2200
Fort Wood
牡
1994
G2
2200
Gunboat Diplomacy
牡
1995
G2
2200
Walk on Mix
牡
1996
G2
2200
エリシオ
牡
1997
G2
2200
Fragrant Mix
牡
1998
G2
2200
Special Quest
牡
1999
G2
2200
Slickly
牡
2000
G2
2200
Kutub
牡
2001
G2
2200
アナバーブルー
牡
2002
G2
2200
バリンガリー (英語版 )
牡
2003
G2
2200
Super Celebre
牡
2004
G2
2200
Voix du Nord
牡
2005
G2
2100
Ruwi
牡
2006
G2
2100
Gentlewave
牡
2007
G2
2100
ソルジャーオブフォーチュン
牡
2008
G2
2100
Full of Gold
牡
2009
G2
2100
Grandcamp
牡
2010
G2
2100
Planteur
牡
2011
G2
2000
Grand Vent
牡
2012
G2
2100
Hard Dream
牡
2013
G2
2100
Tableaux
牡
2014[ 3]
G3
2100
Gailo Chop[ 4]
騸
2015[ 5]
G3
2100
Karaktar
牡
2016[ 6]
G3
2100
Raseed
牡
シャンティイ競馬場で開催
2017[ 7]
G3
2100
Soleil Marin
牡
シャンティイ競馬場で開催
2018[ 8]
G3
2100
Pharrell
牡
2019[ 9]
G3
2100
Slalom
牡
2021[ 10]
G3
2100
Cheshire Academy
牡
2022[ 11]
G3
2100
Junko
騸
2023[ 12]
G3
2100
Flight Leader
牡
2024[ 13]
G3
2100
Calandagan
騸
騎手
2012年現在の最多勝利騎手はフレディ・ヘッド 騎手の6勝[ 2] 。
調教師
2012年現在の最多勝利調教師はアンドレ・ファーブル 調教師の9勝[ 2] 。
馬主
2012年現在の最多勝利馬主は4勝で2名いる[ 2] 。
競走名の由来
名種牡馬ザナボブ
ザナボブ (The Nabob)は1849年にイギリスのハンプトンコート王室牧場 で生産された[ 2] [ 14] 。
ザナボブの競走成績は26戦して6勝、主な勝鞍はチェスターフィールドカップ(4歳時)で、このほか多くの競走で入着した。入着したなかで代表的なものは、アスコット金杯 での2着(優勝馬は三冠馬ウェストオーストラリアン )である[ 2] [ 15] 。
ザナボブはイギリスで短期間種牡馬として使われ、アスコット金杯を勝ったルピー(Rupee)を出した。1857年にフランスに輸出され、マンシュ県 のマルタンヴァ (英語版 ) で繋養された[ 2] 。
3万フランでアルチュール・ド・シークラー(Arthur de Schickler)男爵に購入されるとすぐに、産駒からショワジールロワ(Choisy le Roi、1862年リュパン賞優勝)やスズラン(Suzerain、1868年フランスダービー優勝)が登場した。ザナボブの産駒でフランスダービーを勝ったのは、このショワジールロワを含めて5頭[ 2] [ 15] 出た。
産駒で最も有名なのは、1860年生まれのボワルセル(Bois-Roussel、※1935年生まれのボワルセル とは同名異馬)とヴェルムート(Velmouth[ 注 1] )である。ボワルセルは1864年にリュパン賞とフランスダービーを勝ち、ヴェルムートはパリ大賞典でイギリスダービー馬を破って歴史的な勝利を挙げた。両馬の馬主は、ド・シークラー男爵のライバルのアンリ・デルマーレ(Henri Delamarre)だった[ 2] [ 15] 。
ノアイユ家
ノアイユ賞の名前になったのは、1895年に亡くなったノアイユ伯爵を記念したものである。このほかフランスの競馬史上には特筆すべき「ノアイユ家」の人物が4人いる。
アルフレド・ド・ノアイユ伯爵
アルフレド・ド・ノアイユ 伯爵(1886年のLe Triboulet 紙)
1896年に競走名をノアイユ賞に改めたのは、前年に亡くなったアルフレド・ド・ノアイユ伯爵(Comte Alfred de Noailles、1823-1895)を追悼するためである[ 2] 。
大使館の秘書をしていたド・ノアイユ伯爵は、1848年にフランスジョッキークラブ に加入した。1850年には馬種改良奨励協会のメンバーになり、特に1857年のロンシャン競馬場の創設にあたって、パリ市との折衝で重要な役割を担った。1860年には執行役員[ 注 2] となり、主に裁決委員として活躍した。晩年の1890年にはジョッキークラブの副会長を務めた[ 2] 。
エマニュエル・ド・ノアイユ侯爵
ド・ノアイユ伯爵の叔父に当たるエマニュエル・ド・ノアイユ (英語版 ) 侯爵(1743-1822)は、馬種改良奨励協会の副理事を務めていた。1856年にはマルク・ド・ボーヴォー公 (フランス語版 ) と共同で所有していたリオン(Lion)でフランスダービーを制覇している[ 2] 。
エマニュエル・ド・ノアイユ侯爵は、1858年に外交官としてフランス国外に赴任するため、奨励協会を辞任せざるを得なかった。侯爵の外交官として最も有名な職務は駐ベルリン大使だったが、ほかにもウィーンやローマの大使を歴任した[ 2] 。
モーリス・ド・ノアイユ公爵
アドリアン・モーリス・ド・ノアイユ (英語版 ) 公爵は1897年に馬主になると、いきなり持ち馬のフィープランタン(Fee Printemps)がヴァントー賞 (英語版 ) に勝ち、ディアヌ賞 でも4着に入る活躍をした。緑地に赤と緑のストライプの袖、赤い帽子というのが公爵の勝負服だった[ 2] 。
この後まもなく公爵はノアイユ家の所領であるウール=エ=ロワール県 のマントノン城 (フランス語版 ) で競走馬の生産を始めた。1902年にはイギリスからレイヴンスベリー(Ravensbury)を輸入して種牡馬とした。レイヴンスベリーは不運にも三冠馬アイシングラス と同じ年に生まれ、三冠戦すべてで2着だった。レイヴンスベリーの生涯成績は27戦7勝だが、そのうち8戦はアイシングラスに敗れたものだった。レイヴンスベリーの父はアイシングラスと同じアイソノミー で、母は二冠馬ショットオーヴァー の全姉だった。しかし、レイヴンスベリーは種牡馬としては失敗に終わった[ 2] 。
モーリス・ド・ノアイユ公爵は1926年に馬種改良奨励協会の執行役員になった[ 2] 。
フランソワ・ド・ノアイユ公爵
若い頃からアマチュアの騎手として名声を得ていたフランソワ・ド・ノアイユ公爵 (英語版 ) は、1954年に奨励協会の執行役員となった。公爵は1956年から1969年、1972年から1975年、そして1978年から1981年に裁決委員を務めた[ 2] 。
脚注
注釈
^ 出典によって「Velmouth」、「Velmout」と綴りが2通り見受けられる。語源はアルコールのベルモット である。ここでは「Velmouth」を採った。サラブレッド・ヘリテイジ ヴェルムート 2013年3月13日閲覧。
^ 英文では「executive member」で、直訳すると「執行社員、執行会員」のようになる。原語(フランス語)は不明。
出典
^ ICSC 2014 France 2014年12月12日閲覧。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab “ノアイユ賞の歴史 ” (英語). フランスギャロ. 2013年3月9日 閲覧。
^ 2014年レース結果 - racingpost、2014年4月22日閲覧
^ Gailo Chop競走成績 - racingpost、2014年4月23日閲覧
^ 2015年レース結果 - racingpost、2015年4月22日閲覧
^ 2016年成績 - racingpost、2016年4月21日閲覧
^ 2017年成績 - racingpost、2017年4月17日閲覧
^ 2018年結果 - racingpost、2018年4月17日閲覧
^ “2019年ノアイユ賞 ”. レーシングポスト (2019年4月14日). 2019年4月16日 閲覧。
^ “Full Result 3.45 Longchamp (FR) | 11 April 2021 ” (英語). racingpost.com . Racing Post . 2023年4月9日 閲覧。
^ “2022年ノアイユ賞 ”. レーシングポスト (2022年4月17日). 2022年4月18日 閲覧。
^ 2023年ノアイユ賞 レーシングポスト、2023年4月16日配信・閲覧
^ 2024年ノアイユ賞 レーシングポスト、2024年4月14日配信・閲覧
^
“グラウコス ” (英語). サラブレッド・ヘリテイジ. 2013年3月13日 閲覧。
^ a b c “ヴェルムート ” (英語). サラブレッド・ヘリテイジ. 2013年3月9日 閲覧。
参考文献
フランス・ギャロ公式HPノアイユ賞の歴史 2013年3月9日閲覧。
『フランス競馬百年史』 ギイ・チボー・著、真田昌彦・訳、財団法人競馬国際交流協会・刊、2004
『凱旋門賞の歴史』第1巻(1920-1951)アーサー・フィッツジェラルド・著、草野純・訳、財団法人競馬国際交流協会・刊、1995