ナムブイ(Nambui, 生没年不詳)は、モンゴル帝国第5代皇帝クビライの皇后(ハトゥン)の一人。自らの叔母でクビライの第一皇后であったチャブイの死後に娶られ、チャブイの正宮としての地位を受け継いだ。
『元史』などの漢文史料では南必(nánbì)、『集史』などのペルシア語史料ではنمبوى خاتون (namubūī khātūn) と記される。
概要
『集史』によると、ナムブイはコンギラト部族長でモンゴル帝国の創始者チンギス・カンに仕えたデイ・セチェンの孫、ナチンの娘として生まれた[1][2]。
ナチンの姉妹でナムブイにとっては叔母に当たるチャブイが至元18年(1281年)に亡くなるとクビライに娶られ、その約1年後の至元20年(1283年)に正式にチャブイの後を継いで皇后とされた。『集史』「クビライ・カアン紀」によると、チャブイ自らが「自らの死の1年後にナムブイを自らのオルドに入れるように」と希望しており、クビライはその希望通りナムブイを扱ったという[3]。この頃既にクビライは高齢であり、ナムブイは臣下に代わって奏上を行うなど、よく朝政にたずさわっていたという[4]。
クビライとの間にテメチ(Temeči >鉄蔑赤/tiĕmièchì)という息子を生んでいる[5][6]。
コンギラト部デイ・セチェン家
- デイ・セチェン
- アルチ・キュレゲン(Alči Küregen >阿勒赤古咧堅/ālèchì gŭliējiān,الجی كوركان/Āljī kūrkān)
- チグゥ・キュレゲン(Čiγu Küregen >赤古古咧堅/chìgŭ gŭlièjiān,جیکو كوركان/Jīkū kūrkān)
- オキ・フジン・カトン(Öki füǰin qatun >اوکی فوجین خاتون/Ūkī fūjīn khātūn)
- 昭睿順聖皇后チャブイ・カトン(Čabui qatun >察必/chábì,جابون خاتون/Jābūn khātūn)
- 万戸オチン・キュレゲン(Očin Küregen >斡陳/wòchén)
- ナチン・キュレゲン(Način Küregen >納陳/nàchén,ناچین كوركان/Nāchīn kūrkān)
- 万戸オロチン・キュレゲン(Oločin Küregen >斡羅陳/wòluóchén)
- 叛臣ジルワダイ(J̌ilwadai >只児瓦台/zhǐérwǎtái)
- 万戸テムル・キュレゲン(Temür Küregen >帖木児/tièmùér)
- 万戸マンジタイ・キュレゲン(Manǰitai Küregen >蛮子台/mánzǐtái)
- ナムブイ・カトン(Nambui qatun >南必/nánbì,نمبوى خاتون/Namubūī khātūn)
脚注
- ^ ナチン(Način >納陳/nàchén)はデイ・セチェン(特薛禅)の息子アルチ(Alči >按陳/ànchén)の息子に当たる。『元史』巻118列伝5特薛禅伝「特薛禅、姓孛思忽児、弘吉剌氏……子曰按陳……弟納陳、歳丁巳襲万戸」。
- ^ 『元史』巻114列伝1后妃伝はナムブイを「ナチンの孫仙童の娘」とする(『元史』巻114列伝1后妃伝「南必皇后、弘吉剌氏、納陳孫仙童之女也」)が、これでは世代が離れすぎてしまうため、『集史』に従ってナチンの娘とするのが正しいと考えられている(宇野1999,63頁)
- ^ 宮2018,819頁
- ^ 『元史』巻114列伝1后妃伝「南必皇后、弘吉剌氏、納陳孫仙童之女也。至元二十年、納為皇后、継守正宮。時世祖春秋高、頗預政、相臣常不得見帝、輒因后奏事焉」
- ^ 『元史』巻114列伝1后妃伝「有子一人、名鉄蔑赤」
- ^ なお、このテメチは『集史』「クビライ・カアン紀」では「[クビライの]第十二子:[名は]不詳」とあり、名前が記されていない(宮2018,819頁)
参考文献
- 宇野伸浩「チンギス・カン家の通婚関係の変遷」『東洋史研究』52号、1993年
- 宇野伸浩「チンギス・カン家の通婚関係に見られる対称的婚姻縁組」『国立民族学博物館研究報告』別冊 20、1999年
- 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年