トンミ・サンボータトンミ・サンボータ (チベット語:ཐོན་མི་སམབྷོ་ཊ; ワイリー方式:thon mi sam+b+ho Ta) は、チベット文字の創成者と伝わる人物で、西暦7世紀にチベット帝国を建国したソンツェン・ガンポの大臣とされる。 14世紀の歴史書『王統明鏡史』(チベット文字:རྒྱལ་རབས་གསལ་བའི་མེ་ལོང; ワイリー方式:rgyal rabs gsal ba'i me long) や『プトン仏教史』 (チベット語:བུ་སྟོན་ཆོས་འབྱུང; ワイリー方式:bu ston chos 'byung) によると、ソンツェン・ガンポの命でインドに派遣され、そこで文字と文法学を修めたトンミは、帰国後チベット語のための文字を制定し、2編の文法書を記したとされる[1]。トンミが著したと伝わる文法書は、以下の2つである[2][3]。 『三十頌』と『性入法』に対しては、西暦12世紀から現代に至るまで多くの註釈書が記され、現在のチベットにおいても学ばれている[3][4]。 ただし、トンミの生きた7世紀のチベット及び唐の文献には、彼の「業績」に関する言及が見られない[5][6]。『三十頌』『性入法』の註釈書も、12世紀以前のものは一切伝わっていない。ロイ・アンドリュー・ミラーや山口瑞鳳は「トンミ」の史的実在性に疑義を呈している[7][8]。 同時代の史書における文字創成の記述ソンツェン・ガンポの治世以前のチベットにおいて文字が無かった点は、チベット帝国の『年代記』や『編年紀』、及び中国の『旧唐書』吐蕃伝の中にも言及がある。『年代記』『編年紀』は、いわゆる「敦煌文献」の一部として20世紀に「発見」された文献であり、チベット帝国の崩壊以降、その存在は忘れ去られていた。ただし、文字創成者としての「トンミ」や彼の著した文法書に関する記述は、敦煌文献において全く見られない[5][6]。 14世紀チベットの史書に記述されたトンミの足跡サキャ派の座主ソナム・ギェルツェン(1312-1375) の著した『王統明鏡史』には、ソンツェン・ガンポの大臣「トンミ・サンボータ」の足跡が記されている。 『王統明鏡史』によると、トンミは南インドに派遣され、バラモンのラジン (lHa byin) の下で文字を、パンディタのレーリクセンゲ (lHaʼi rigs seng ge) の下で文法学を修めた後、インドの文字を基にチベット語に適合する文字を制定し、幾つかの仏典を翻訳したという[9]。 訳経僧としての「トンミ・サンボータ」については、『プトン仏教史』の中にも言及がある。ただし、『プトン仏教史』によると、ラリクセンゲ (lHa rigs seng ge) の下で文字と文法学を学んだのは、訳経僧トンミ・サンボータではなくトンミアヌイブ (Thon mi anuʼi bu)という別の人物である[10]。 脚注参考文献
|