トマス・G・ターナー
トマス・G・ターナー (Thomas G. Turner) として知られた、トマス・グッドウィン・ターナー(Thomas Goodwin Turner、1810年10月24日 - 1875年1月3日)は、アメリカ合衆国の政治家、実業家で、1859年から1860年にかけてロードアイランド州知事を務めた[1]。 生い立ちターナーは、ロードアイランド州ブリストル郡ウォーレンに生まれた[1]。14歳でロードアイランド州ニューポートの織物店で店員として働き始めた。学校教育は受けず、自学自習し、ウォーレンに戻って織物店の共同創業者のひとりとなり、仕立屋の仕事を始めた[2]。 ターナーは、メアリ・ピアス・ルーサー (Mary Pierce Luther)と結婚した。夫妻の間には7人の子どもが生まれたが、そのうち4人は夭折した[2]。 1857年から1858年にかけて、ターナーはウォーレンのバプテスト教会で活発に活動した[2]。また、ブラウン大学の理事を務め、ロードアイランド歴史協会の会員でもあった[2]。 経歴ターナーは、ドアの反乱(1841年 - 1842年)の際に、州民兵として鎮圧にあたり、アコーツ・ヒル (Acote's Hill) における軍事行動の際には、州知事サミュエル・ウォード・キングを支持する軍勢を率いた[2]。反乱の後、ターナーはウォーレンから州議会議員に選出された[2]。1857年から1859年にかけて、ロードアイランド州副知事を務めた[2]。 ターナーは、共和党の同僚であったエリシャ・ダイアーの後を受けてロードアイランド州知事に就任し、1859年5月31日から1860年5月29日までその任にあった[1]。ただし、任期の終了については、1860年5月1日とする資料もある[3]。 ターナーは、エイブラハム・リンカーンの支持者であり、1860年には共和党からの再任指名の獲得に失敗した。知事職を離れた後は、リンカーン大統領の指名で、ロードアイランド州第1区の国内歳入主席徴税官 (First Collector of Internal Revenue) に任じられた[2][3]。 晩年晩年のターナーは、ロードアイランド州プロビデンスで、イクイタブル保険会社 (the Equitable Insurance Company) の社長を務めていた[4]。ターナーは、ウォーレンの South Burial Ground に埋葬された[5]。 脚注
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