ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス (紀元前123年の執政官)
ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス(ラテン語: Titus Quintius Flamininus、生没年不詳)は、紀元前2世紀中期・後期の共和政ローマの政務官。紀元前123年に執政官(コンスル)を務めた。 出自フラミニヌスはパトリキ(貴族)であるクィンクティウス氏族の出身。ノーメン(氏族名)のクィンクティウスは、プラエノーメン(第一名、個人名)のクィントゥス(数字の5)に由来する[1]。何人かの古代の著述家は、クィンクティウス氏族の歴史は初代ローマ王ロームルスの時代に遡り、ルペルカーリア祭との関連を述べている[2][3][4]。ティトゥス・リウィウスによれば、ローマ第三代王トゥッルス・ホスティリウスの時代にセルウィリウス氏族、ゲガニウス氏族、クリアティウス氏族、クロエリウス氏族、トゥッリウス氏族と共にアルバ・ロンガから移住したとする[5]。カピトリヌスのファスティには、紀元前471年にティトゥス・クィンクティウス・カピトリヌス・バルバトゥスが氏族最初の執政官となって以来、継続的にクィンクティウス氏族出身の執政官が記録されている[6][7]。ラミニヌスの祖父は神官(フラーメン)であり、このためその子孫がフラミニヌスのコグノーメン(第三名、家族名)を名乗ったとの仮説がある[8][9]。 カピトリヌスのファスティの損傷のため、父および祖父の名前は不明であるが、紀元前150年の執政官ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスが父、紀元前198年の執政官ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスが祖父であると思われる。しかし、祖父はその兄で紀元前198年の執政官ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌスが父である可能性もある[10]。 経歴執政官就任年とウィッリウス法の規定から逆算して、フラミニヌスは遅くとも紀元前126年にはプラエトル(法務官)に就任したはずである。紀元前123年には執政官に就任する。同僚執政官はプレブスのクィントゥス・カエキリウス・メテッルスであった[11]。同年にガイウス・センプロニウス・グラックス(グラックス弟)が護民官に当選し、兄の意思を継いで過激な改革を開始した[12]。 フラミニヌスの執政官任期中に、スキピオ・アエミリアヌスによって紀元前142年に破壊されたカルタゴの地に、ローマの植民都市が建設されることとなった(コロニア・ユノニア)。しかし、ティトゥス・リウィウス[13]とプルタルコス[14]は、これを翌紀元前122年のことで、グラックスを建設責任者としている。何れにせよ、このコロニア・ユノニアは、地中海の対岸に建設された、最初の植民都市であった。 キケロはフラミニヌスを子供の頃に見たことがあり、「彼は立派なラテン語の能力を認められていたが、教養は無かった。」と評している[15]。 脚注
参考資料古代の資料
研究書
関連項目
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