チャーリー・パットン
チャーリー・パットン(Charley (Charlie) Patton, 1891年 - 1934年)はデルタ・ブルースのギタリスト、シンガー。戦前の黒人の間では、デルタ・ブルースの人物中でも、最も人気があった歌手と伝えられている。 来歴1891年(1881年、1885年、1887年など諸説あり)、ミシシッピ州ハインズ郡のエドワーズ近郊に十二人兄弟の一人として産まれる[1]。家族は当時ジャクソンとヴィックスバーグの間にある農場で農園労働者、物納小作人(en)として働いていた。 1897年、家族は100マイル北のドッカリープランテーションへと移住。綿花の摘み取り等の仕事に従事した。チャーリー・パットンは、厳格な父の目を盗んではパーティーや盛り場へ出かけ、チャットマン一家(ミシシッピ・シークス)と共に演奏を繰り広げたり、その地に住んでいたギタリスト、ヘンリー・スローン(1918年、シカゴに移住)にギターを学んだりしながら、腕を上げていった。頻繁に演奏を共にしたミュージシャンとしてウィリー・ブラウン、トミー・ジョンソン、ジョー・マーティン、のちにサン・ハウスやハウリン・ウルフ、ロバート・ジョンソン、ヘンリー ”サン” シムズらがいる。 1929年6月14日、彼はインディアナ州リッチモンドに位置するゲネット・レコードのスタジオで初のレコーディングを行い、14曲を録音、その中の「ポニー・ブルース(en)」が「バンティー・ルースター・ブルース」とカップリングされてパラマウントより発売され、これは彼の代表曲の一つとなった。パラマウントではその後、グラフトンのスタジオにて二度のレコーディングが行われている。1929年冬のセッションではフィドラーのヘンリー・シムズが、30年においてはウィリー・ブラウンが四曲中二曲で参加している[2]。 それ以降、極度の飲酒と煙草、不規則な生活のため、ひどい体調不良へと陥っていく中、1934年1月、彼はニューヨークにて内縁の妻バーサ・リーと共に、生涯最後となるレコーディングに臨んだ。その中には有名な「34ブルース」や「オー・デス」等が含まれている。約一ヶ月後、彼はニューヨークから自宅のあったホリー・リッジ(en)へと帰り、それからしばらく経った4月28日、サンフラワー郡インディアノラ近くのプランテーションにて、心臓発作を起こして死去。死亡証明書によると死因は「僧帽弁障害[2]」。死に至るまでの数日を、彼は説教を行って過ごしたという。 1960年代には、ローリング・ストーンズやクリームのおかげで、ロバート・ジョンソンが有名になったが、ジョンソンは戦前には無名で、実際には黒人の間で人気があったのはチャーリー・パットンだったという[3]。体格の大きい父と比べ、小柄で細身だったが、彼の声はアンプなしで遠くまで届くと言われた。放蕩である一面、そうした自分の生活に思い悩み、何度か説教師になろうと志したことがある。 B.B.キングはブルースのロバート・ジョンソンについて、インタビューで訊ねられる事が多いが、ジョンソンについて敬意を払いつつも、自分のアイドルはチャーリー・パットンであると答えている。 脚注
参考文献
外部リンク |