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クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ネポス (紀元前98年の執政官)


クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ネポス
Q. Caecilius Q. f. Q. n. Metellus Nepos
出生 紀元前130年代
死没 不明
出身階級 プレブス
氏族 カエキリウス氏族
官職 法務官(紀元前101年以前)
執政官(紀元前98年)
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クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ネポスラテン語: Quintus Caecilius Metellus Nepos、生没年不詳)は紀元前2世紀後期・紀元前1世紀初期の共和政ローマの政治家。紀元前98年執政官(コンスル)を務めた。

出自

カエキリウス・メテッルス家系図

メテッルスはプレブス(平民)であるカエキリウス氏族の出身である。後に作られた伝説では、火の神ウゥルカーヌスの息子でプラエネステ(現在のパレストリーナ)の建設者であるカエクルス(en)の子孫とする[1]。またアイネイアースと共にイタリアに来たカエクスの子孫とする別説もある[2]カエキリウス・メテッルス家は氏族の中でも特に栄えた。父はクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・バリアリクス、祖父はクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクスで、それぞれ紀元前123年紀元前143年執政官を務めている[3]。ネポスというアグノーメン(愛称、添名)は孫という意味であるが、歴史学者F. ミュンツァーはマケドニクスの年長の孫であるため、このアグノーメンがつけられたと考えている[4]

経歴

ネポスの初期の経歴は不明である。しかし、ウィッリウス法の規定から逆算して、遅くとも紀元前101年以前にはプラエトル(法務官)を務めたはずである[5]紀元前99年ポプラレス(民衆派)によってローマから追放されていたクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ヌミディクスの帰還を求める声が元老院議員から上がったが、ネポスもその一人であった。この提案は護民官プブリウス・フリウスが拒否権を発動して成立しなかった。ネポスはカエキリウス・メテッルス家の他の人物とともに、この決定を再考するように求めたが、フリウスは譲らなかった[4][6][7]

紀元前98年、ネポスは執政官に就任する。同僚はプレブス(平民)でノウス・ホモ(新人)のティトゥス・ディディウスであった[8]。その頃までに、両者は「国家の現状を揺るぎない形で擁護し、扇動者に対抗する戦士としての評判を得ていた」という。両執政官はヌミディクスのローマ帰還を実現させた[9]。加えて、両者は異なる内容の法案を一つにまとめて提出することを禁止し、また法案提出から投票まで27日間は開けることを求めるカエキリウス・ディディウス法を、民会で成立させた。これは扇動的政治家の活動を制限しようとするものであった[10]

後に(おそらく執政官任期完了後の紀元前97年[11])ネポスは、若いノビレス(新貴族)であるガイウス・スクリボニウス・クリオに告訴された。罪状が何であったのか,また裁判がどのように終わったのかは知られていない。1世紀の歴史家アスコニウス・ペディアヌスによれば、死の床にあったネポスは、自らの仇を討つよう息子に遺言したという[4][12]

子孫

ネポスはリキニアという女性と結婚していた。紀元前60年の執政官クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ケレルと紀元前57年の執政官クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ネポスは、ネポスとリキニアの間の子供であると、長い間考えられてきた。しかし1971年に歴史学者T.ワイズマンは、ネポスには自分の息子がいなかったことを証明した。紀元前57年の執政官ネポスは養子であり、紀元前90年の護民官クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ケレルの息子である[13]。リキニアはネポスの死後、クィントゥス・ムキウス・スカエウォラと結婚し、ムキア・テルティアを生んだ。このムキア・テルティアはグナエウス・ポンペイウスと結婚し、グナエウス・ポンペイウス・ミノルセクストゥス・ポンペイウスを生んだ。

脚注

  1. ^ Wiseman T., 1974 , p. 155.
  2. ^ Münzer F. "Caecilius", 1897, s. 1174.
  3. ^ V. Druman. Cecilia
  4. ^ a b c Caecilius 95, 1897.
  5. ^ Broughton, 1951 , p. 571.
  6. ^ Bedian, 2010, p. 181.
  7. ^ Korolenkov, 2013, p. 114-115.
  8. ^ Broughton, 1952, p. 4.
  9. ^ Korolenkov, Smykov, 2007, p. 121.
  10. ^ Ryazanov, Coins of Titus Didius.
  11. ^ Scribonius 10, 1921 , s. 862.
  12. ^ アスコニウス・ペディアヌス『キケロ演説に対する注釈書』、コルネリウス弁護, 63C.
  13. ^ Wiseman 1971, p. 180-182.

参考資料

古代の資料

  • アスコニウス・ペディアヌス『キケロ演説に対する注釈書』
  • カピトリヌスのファスティ

研究書

  • Bedian E. Zepion and Norban (Notes on the Decade of 100-90 BC) // Studia Historica. - 2010. - number the X . - S. 162-207 .
  • Korolenkov A. Mari, Tsinna and Metella // Bulletin of ancient history. - 2013. - No. 4 . - S. 113-122 .
  • Korolenkov A., Smykov E. Sulla. - M .: Molodaya gvardiya, 2007 .-- 430 p. - ISBN 978-5-235-02967-5 .
  • Ryazanov V. Coins and Monetaries of the Roman Republic . Date of treatment June 26, 2018.
  • Broughton R. Magistrates of the Roman Republic. - N. Y. , 1951. - Vol. I. - P. 600.
  • Broughton R. Magistrates of the Roman Republic. - N. Y. , 1952. - Vol. II. - P. 558.
  • Münzer F. Caecilius 95 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - Stuttg.  : JB Metzler, 1897. - Bd. III, 1. - Kol. 1216.
  • Münzer F. Scribonius 10 // Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft . - Stuttg.  : JB Metzler, 1921. - Bd. IIA, 1. - Kol. 862-867.
  • Wiseman T. Celer and Nepos // Classical Quarterly. - 1971. - S. 180-182 .
  • Wiseman T. Legendary Genealogies in Late-Republican Rome // G&R. - 1974. - No. 2 . - S. 153-164 .
  • Drumann W. Geschichte Roms in seinem Übergange von der republikanischen zur monarchischen Verfassung oder Pompeius, Caesar, Cicero und ihre Zeitgenossen. Hildesheim, 1964. Bd. 2, p. 14.

関連項目

公職
先代
アウルス・ポストゥミウス・アルビヌス
マルクス・アントニウス・オラトル
執政官
同僚:ティトゥス・ディディウス
紀元前98年
次代
グナエウス・コルネリウス・レントゥルス
プブリウス・リキニウス・クラッスス
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