アンディ・フィリップ
アンドリュー・マイケル・フィリップ (Andrew Michael Phillip, 1922年3月7日 - 2001年4月29日) は、アメリカ合衆国の元プロバスケットボール選手、指導者。身長188cm、体重88kg。ポジションはポイントガード及びシューティングガード。1950年代のNBAを代表する名選手であり、1961年にバスケットボール殿堂入りを果たした。 経歴アンディ・フィリップことアンドリュー・マイケル・フィリップはイリノイ大学でプレイ。フィリップ擁する同校のバスケットチームは"Whiz Kids"(神童たち)と呼ばれ、カレッジバスケ界を席巻。1942年と1943年のビッグ・テン・カンファレンスのタイトルを制し、1942-43シーズンは無敗を誇った。 大学卒業後、1947年のBAAドラフトでシカゴ・スタッグズから指名を受けてBAA(NBAの前身)入りを果たした。3年目の1949-50シーズンには11.7得点5.8アシストを記録し、平均アシスト数ではリーグ1位となった(当時のアシスト王は通算で決められていた)。スタッグズでは3シーズンプレイし、その間チームは一度も勝率5割を下回ったことがなかったが、興行不振が響き、1950年には解散の憂き目に遭った。フィリップはフィラデルフィア・ウォリアーズに移籍することになった。 新天地でもフィリップは優秀な司令塔として活躍し、通算414アシスト(平均6.3アシスト)を記録して初のアシスト王に輝き、オールスターにも初選出される。当時低迷していたウォリアーズもフィリップにエースのジョー・ファルクス、新人ポール・アリジンの強力なトリオが完成し、このシーズンは40勝26敗を記録する大躍進を見せた。翌1951-52シーズンには2位以下を大きく引き離す539アシスト(平均8.2アシスト)を記録し、2年連続のアシスト王に君臨するも、翌シーズンのウォリアーズは開幕から大不振に陥り、フィリップはシーズン中盤でフォートウェイン・ピストンズに移籍することになった。 この時点でフィリップの年齢はすでに30歳を越えていたが、名プレイメーカーぶりは変わらず、フィリップ加入と共に少しずつ成績を上げ始めたピストンズは、1954-55シーズンには43勝29敗の好成績を記録し、プレーオフも勝ち抜いてファイナルに進出した。ファイナルではシラキュース・ナショナルズと対決し、シリーズは最終第7戦までもつれたが、92-91の1点ビハインドで迎えた第7戦試合終盤、逆転を狙うピストンズはフィリップがボールを運んだが、ナショナルズのジョージ・キングにボールを奪われてしまい、ピストンズはフィリップの痛恨のターンオーバーで敗れ、優勝は叶わなかった。なお、この第7戦は賭博に絡んだ八百長疑惑が持ち上がっており、最後にナショナルズにボールを与えてしまったフィリップにも、その嫌疑が掛けられている。ピストンズは翌シーズンもファイナルに進出するが、今度はフィラデルフィア・ウォリアーズに敗れた。 すでに33歳を迎えたフィリップは引退しようとしていたが、ボストン・セルティックスの名将レッド・アワーバックに熱心に口説かれ、セルティックス入りを決意した。セルティックスではボブ・クージーらの控えとしてプレイし、そして1957年のセルティックスの初優勝に大きく貢献した。念願のチャンピオンリングを手に入れたフィリップは、もう1シーズンだけプレイして、1958年に現役から退いた。 11シーズンに及ぶBAA/NBAキャリア通算成績は701試合に出場し、6,484得点(平均9.1得点)3,759アシスト(平均5.4アシスト)だった。 プレースタイルと業績フィリップは同時代における最高のプレイメイカーの一人と言われ、NBAにおいてポイントガードという概念の確立に大きく貢献した選手だった。特にボールハンドリングとパスに非凡な才能を発揮し、しばしばボブ・クージーやディック・マグワイアらと比較された。シーズン通算500アシストを達成した初のNBA選手である。 個人成績
レギュラーシーズン
プレーオフ
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